ち勝って私に迫っていたからだ。
君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、軽川《かるがわ》あたりの泥炭地《でいたんち》を写したと覚しい晩秋の風景画だった。荒涼と見渡す限りに連なった地平線の低い葦原《あしはら》を一面におおうた霙雲《みぞれぐも》のすきまから午後の日がかすかに漏れて、それが、草の中からたった二本ひょろひょろ[#「ひょろひょろ」に傍点]と生《お》い伸びた白樺《しらかば》の白い樹皮を力弱く照らしていた。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとり[#「べとり」に傍点]となすり付けてあったりしたが、それでもじっ[#「じっ」に傍点]と見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかり[#「しっかり」に傍点]とまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱《ゆううつ》――十六七の少年には哺《はぐく》めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
「たいへんいいじゃありませんか」
絵に対して素直《すなお》になった私の心は、私にこう言わさないではおかなかった。
それを聞くと君は心持ち顔を赤くした――と私は思った。すぐ次の瞬間に来ると、君はしかし私を疑うような、自分を冷笑《あざわら》うような冷ややかな表情をして、しばらくの間私と絵とを等分に見くらべていたが、ふいと庭のほうへ顔をそむけてしまった。それは人をばかにした仕打ちとも思えば思われない事はなかった。二人は気まずく黙りこくってしまった。私は所在なさに黙ったまま絵をながめつづけていた。
「そいつはどこん所が悪いんです」
突然また君の無愛想な声がした。私は今までの妙にちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になった気分から、ちょっと自分の意見をずばずばと言い出す気にはなれないでいた。しかし改めて君の顔を見ると、言わさないじゃおかないぞといったような真剣さが現われていた。少しでもまに合わせを言おうものなら軽蔑《けいべつ》してやるぞといったような鋭さが見えた。よし、それじゃ存分に言ってやろうと私もとうとうほんとうに腰をすえてかかるようにされていた。
その時私が口に任せてどんな生意気を言ったかは幸いな事に今はおおかた忘れてしまっている。しかしとにかく悪口としては技巧が非常にあぶなっかしい事、自然の見方が不親切な事、モティヴが耽情的《たんじょうてき》過ぎる事などをならべたに違いない。君は黙ったまままじまじ[#「まじまじ」に傍点]と目を光らせながら、私の言う事を聞いていた。私が言いたい事だけをあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に言ってしまうと、君はしばらく黙りつづけていたが、やがて口のすみだけに始めて笑いらしいものを漏らした。それがまた普通の微笑とも皮肉な痙攣《けいれん》とも思いなされた。
それから二人はまた二十分ほど黙ったままで向かい合ってすわりつづけた。
「じゃまた持って来ますから見てください。今度はもっといいものをかいて来ます」
その沈黙のあとで、君が腰を浮かせながら言ったこれだけの言葉はまた僕を驚かせた。まるで別な、初《うぶ》な、素直な子供でもいったような無邪気な明るい声だったから。
不思議なものは人の心の働きだ。この声一つだった。この声一つが君と私とを堅く結びつけてしまったのだった。私は結局君をいろいろに邪推した事を悔いながらやさしく尋ねた。
「君は学校はどこです」
「東京です」
「東京? それじゃもう始まっているんじゃないか」
「ええ」
「なぜ帰らないんです」
「どうしても落第点しか取れない学科があるんでいやになったんです。‥‥それから少し都合もあって」
「君は絵をやる気なんですか」
「やれるでしょうか」
そう言った時、君はまた前と同様な強情らしい、人に迫るような顔つきになった。
私もそれに対してなんと答えようもなかった。専門家でもない私が、五六枚の絵を見ただけで、その少年の未来の運命全体をどうして大胆にも決定的に言い切る事ができよう。少年の思い入ったような態度を見るにつけ、私にはすべてが恐ろしかった。私は黙っていた。
「僕はそのうち郷里に――郷里は岩内《いわない》です――帰ります。岩内のそばに硫黄《いおう》を掘り出している所があるんです。その景色を僕は夢にまで見ます。その絵を作り上げて送りますから見てください。……絵が好きなんだけれども、下手《へた》だからだめです」
私の答えないのを見て、君は自分をたしなめるように堅いさびしい調子でこう言った。そして私の目の前に取り出した何枚かの作
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