ると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。
 「はれ兄《あん》さんもう浜さいくだね」
 「うんにゃ」
 「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする人《ふと》が暇さえあれば山さ突っぱしるだから怪体《けたい》だあてばさ。いい人でもいるだんべさ。は、は、は、‥‥。うんすら妬《や》いてこすに、一押し手を貸すもんだよ」
 「口はばったい事べ言うと鰊様《にしんさま》が群来《くけ》てはくんねえぞ。おかしな婆様《ばさま》よなあお前も」
 「婆様だ!?[#「!?」は横一列、第3水準1−8−78、79−13] 人聞《ふとぎ》きの悪い事べ言わねえもんだ。人様《ふとさま》が笑うでねえか」
 実際この内儀さんの噪《はしゃ》いだ雑言《ぞうごん》には往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、橇《そり》の後ろに回って三四間ぐんぐん押してやらなければならなかった。
 「そだ。そだ。兄《あん》さんいい力だ。浜まで押してくれたらおらお前に惚《ほ》れこすに」
 君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっ[#「どっ」に傍点]と笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。
 「春が来るのだ」
 君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
 やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、札幌《さっぽろ》のある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。藁屑《わらくず》や新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先にほうり出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立てならべてある。そして気のきいた手代が十人近くも忙《いそが》しそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩内じゅうの小売り商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないために、ほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」‥‥そう思いながら君はその店の角《かど》を曲がって割合にさびれた横町にそれた。
 その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それ
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