人々は暗々裏にそれに脅かされている。いつどんな事がまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難にあうとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、鰊《にしん》の群来《くき》がすっかり[#「すっかり」に傍点]はずれるとか、ワク船が流されるとか、いろいろに想像されるこれらの不幸の一つだけに出くわしても、君の家にとっては、足腰の立たない打撃となるのだ。疲れた五体を家路に運びながら、そしてばかに建物の大きな割合に、それにふさわない暗い灯《ひ》でそこと知られる柾葺《まさぶ》きの君の生まれた家屋を目の前に見やりながら、君の心は運命に対する疑いのために妙におくれがちになる。
 それでも敷居《しきい》をまたぐと土間のすみの竈《かまど》には火が暖かい光を放って水飴《みずあめ》のようにやわらかく撓《しな》いながら燃えている。どこからどこまでまっ黒にすすけながら、だだっ広い囲炉裏の間《ま》はきちん[#「きちん」に傍点]と片付けてあって、居心よさそうにしつらえてある。嫂《あによめ》や妹の心づくしを君はすぐ感じてうれしく思いながら、持って帰った漁具――寒さのために凍り果てて、触れ合えば石のように音を立てる――をそれぞれの所に始末すると、これもからからと音を立てるほど凍り果てた仕事着を一枚一枚脱いで、竈《かまど》のあたりに掛けつらねて、ふだん着に着かえる。一日の寒気に凍え切った肉体はすぐ熱を吹き出して、顔などはのぼせ上がるほどぽかぽかして来る。ふだん着の軽い暖かさ、一|椀《わん》の熱湯の味のよさ。
 小気味のよいほどしたたか夕餉《ゆうげ》を食った漁夫たちが、
 「親方さんお休み」
と挨拶《あいさつ》してぞろぞろ出て行ったあとには、水入らずの家族五人が、囲炉裏の火にまっかに顔を照らし合いながらさし向かいになる。戸外ではさらさらと音を立てて霰《あられ》まじりの雪が降りつづけている。七時というのにもうその界隈《かいわい》は夜ふけ同様だ。どこの家もしん[#「しん」に傍点]として赤子の泣く声が時おり聞こえるばかりだ。ただ遠くの遊郭のほうから、朝寝のできる人たちが寄り集まっているらしい酔狂のさざめきだけがとぎれとぎれに風に送られて伝わって来る。
 「おらはあ寝まるぞ」
 わずかな晩酌《ば
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