」
両人の目には咄嗟《とっさ》の間にも互いに親しみをこめてこう言い合った。そしてこのうれしい言葉を語る目から互い互いの目は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた。
君は満足しきってまた働き始めた。もう目の前には岩内の町が、きたなく貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ち列《つら》なっていた。水難救済会の制服を着た人たちが、右往左往に駆け回るありさまもまざまざと目に映った。
なんとも言えない勇ましい新しい力――上げ潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出して来る新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、艪《ろ》をひしげるほど押しつかんだ。そして矢声をかけながら漕《こ》ぎ始めた。涙があとからあとからと君の頬《ほお》を伝って流れた。
唖《おし》のように今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれ出て、君の声に応じた。艪は梭《ひ》のように波を切り破って激しく働いた。
岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるようなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した感じに襲われて来た。
君はもう一度君の父上のほうを見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった。
やがて船底にじゃりじゃり[#「じゃりじゃり」に傍点]と砂の触れる音が伝わった。船は滞りなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
「死にはしなかったぞ」
と君は思った。同時に君の目の前は見る見るまっ暗になった。‥‥君はそのあとを知らない。
七
君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出す。なんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらい[#「かっぱらい」に傍点]のように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶる[#「しゃぶる」に傍点]けれども、ほどなくその生は
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