海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足|爪立《つまだ》てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
「峠が見えたぞ‥‥北に取れや舵《かじ》を‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥雪崩《なだれ》にも打たせんなよう‥‥」
そう言う声がてんでん[#「てんでん」に傍点]に人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪《ふぶき》の間からまっ黒に天までそそり立つ断崕《だんがい》に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、艪《ろ》を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った。
陸地に近づくと波はなお怒る。鬣《たてがみ》を風になびかして暴《あ》れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫《ひまつ》になり、飛沫はしぶき[#「しぶき」に傍点]になり、しぶき[#「しぶき」に傍点]は霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く。山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような白沫《しらあわ》を五丈も六丈も高く飛ばして、反《そ》りを打ちながら海の中にどっ[#「どっ」に傍点]とくずれ込む。
その猛烈な力を感じてか、断崕《だんがい》の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面との縁《えん》から離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。巓《いただき》を離れた時には一握りの銀末に過ぎない。それが見る見る大きさを増して、隕星《いんせい》のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾《おおすだれ》だ。ど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる。山のような五百重《いおえ》の大波はたちまちおい退けられて漣《さざなみ》一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方か
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