ひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、浸水《あか》をくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて怪火《かいか》のように流れる炭火の火の子とをながめやる。長い鉄の火箸《ひばし》に火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなる印《しるし》と見て船を停《と》め、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁闇《ぎょうあん》を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。
どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。猫《ねこ》のような声で小さく呼びかわすこの海の砂漠《さばく》の漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜の闇《やみ》は暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には黎明《れいめい》の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の絶巓《ぜってん》をなでたりたたいたりして叢立《むらだ》ち急ぐ嵐雲《あらしぐも》は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な藤色《ふじいろ》に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。
私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配縄《はいなわ》の用意をしながら、恐ろしいまでに荘厳《そうごん》なこの日の序幕をながめているのだ。君の
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