んど、暮らしも忙《せわ》しいし、やってもおらにはやっぱり[#「やっぱり」に傍点]手に余るだろう。色もつけてみたいが、絵の具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、おらのような絵にはまた買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしいいいものがあるんだが、力が足んねえです」
と言ったりする君の言葉も様子も私には忘れる事のできないものになった。その時はあぐらにした両脛《りょうすね》を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。
私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく吹雪《ふぶき》は露ほども力をゆるめなかった。君は君で、私は私で、妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君の事を思った。仁王《におう》のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、この上なく美しい事に私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えた。そして私はだんだん私の仕事の事を考えた。どんなにもがいてみてもまだまだほんとうに自分の所有を見いだす事ができないで、ややもするとこじれた反抗や敵愾心《てきがいしん》から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見る事に興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせた。そしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。
次の日の朝、こうしてはいられないと言って、君はあらしの中に帰りじたくをした。農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろとしいて止めるのも聞かず、君は素足にかちんかちん[#「かちんかちん」に傍点]に凍った兵隊|長靴《ながぐつ》をはいて、黒い外套《がいとう》をしっかり[#「しっかり」に傍点]着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだ。なごりを心から惜しんでだろう、農場の人たちも親身《しんみ》にかれこれと君をいたわった。すっかり[#「すっかり」に傍点]頭巾《ずきん》をかぶって、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうとみんなが寄って勧めたけれども、君は素朴《そぼく》なはばかりから帽子もかぶらずに
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