った。
 園は欠席届書を小母《おば》さんに託《たく》し、不幸というのは父が頓死《とんし》したのだということを簡単に告げて、座を立つことになった。彼は見納めをするような気持で、きちんと整頓《せいとん》されたその茶の間を眼早く見まわした。時計の下の柱暦に小母さんとおぬいさんとの筆蹟《ひっせき》がならんでいるのも――彼が最初にその家に英語を教えるのを断りに来た時に気がついたものだけに――なつかしかった。彼は自分のしたことが、思った以上に彼にとって致命的であるのを知った。
「ぬいさん、園さんがお帰りだからお見送りなさいな。東京の方にお帰りだというから――」
 小母さんは立ち上って園を入口に送りだしながら、奥の方にこう声をかけた。けれどもおぬいさんの出てきそうな様子はなかった。園はそれがおぬいさんらしいと思った。そう思いはしたものの、言いようのない物足らなさが胸の奥底に濃く澱《よど》むのをどうすることもできなかった。
 園が編上靴を穿《は》き終って、外套を着て、もう一度小母さんに簡単な別れの挨拶をして格子戸を開けようとした時、おぬいさんが奥から出てくるのを感づいて、彼は思わず後を振り向いた。はたしておぬいさんが小刻みに駈けるようにして母の後ろまで来ると、その蔭に倚《よ》りそって坐るが早いか頭を下げた。園も黙って帽子を取った。その時見えた小母さんの眼には涙がいっぱいたまっていた。
 園は格子戸を立ててから、未練だとは思いながらもちらっとおぬいさんを見た。おぬいさんは、畳についた両手をしゃんと延ばして寄せ合わせて、肩さえいつもより細々と見えるのに、襟足がのぞかれるまで顔を重く伏せていた。眼上のものに心から詫び入る姿のように。かと思うと死ぬほどの口惜しさをじっと堪らえる形のように。園にはもどかしいほどに、そのいずれであるかがどうしても分らなかった。
 園は歩きながら、我にもなくややともすると、熱い涙が眼に迫るのを感じた。そして振り払うように眼を瞑《つむ》って、雪になるらしく曇った夜の空に、幾度も顔を仰向けねばならなかった。
 思いもかけぬ重い苦痛と疑惑とが、若い心を老いしめると思うほどに押し寄せてきた。彼は自分の腑甲斐《ふがい》なさに呆れるほどだった。市街のここかしこに立つ老いた楡《にれ》の樹を見るごとに、彼はそれによって自分の心を励まそうとした。……科学のために一身を献《ささ》げようとするものに何んという不覚なことだ。昔から学者の生活が世の常の立場から見て、淋しく暗らいものであるのは知れきったことだ。それは始めからある誇りをもって覚悟していたことではなかったか。誰にも省みられないけれども、春が来るごとに黙って葉を連ねているあの楡の大樹、あの老木が一度でも分外な涙を流したか。貴様にはまだ文学者じみたセンティメンタリズムが影を潜めてはいないのだ。科学者らしい雄々しさを持て。真理の前には何事を犠牲《ぎせい》にしても、微笑していられるだけの熱情を持て。その熱情を誰にも見えない胸の深みに静かに抱いていろ。おぬいさんを愛するのを止めろというのではない。貴様の愛し方は間違っているとはいえない。その愛がその人の前に明かに表明された以上、貴様の心は朗《ほがらか》に晴れていかねばならぬはずだ。それだのに結果は反対ではないか。何んという愚かな苦しみを喜ぼうとしているのだ。……貴様の科学は今どこに行ってしまったのだ。そんな風に園はむちゃくちゃに停車場の方に向って歩きながら、自分で自分を鞭《むちう》ってみた。
 そうだったと眼が覚めるように思い上る瞬間もあった。同時に、玄関で別れぎわに見たいたいたしいおぬいさんの姿が、手を延ばせば掴めそうに眼の前にちらついて離れない瞬間もあった。しまいには園は自分を憐みたくさえなった。しかもそれが父の死を知ったばかりの悲しみの中にあるべき身でありながら――園はさながら魍魎《もうりょう》の巣の中を喘ぎ喘ぎ歩いていくもののように歩いた。
 停車場には白官舎の書生だけが三人で送りに来ていてくれた。柿江は夜学校の日だというので顔を見せなかった。婆やも来てはいなかった。人見が「東京に行くとおもしろい議会が見られるね。伊藤が政友会を率いてどう元老輩をあやつるかが見ものだよ」といっていた。その言葉が特別に園に縁遠い言葉としてかえっていつまでも耳底に残った。
 三等車の中央部にあるまん丸な鋳鉄製のストーブは真赤に熱して、そのまわりには遠くから来た旅客がいぎたなく寝そべっていた。八時に札幌を発《た》った列車は、雪さえ黒く見えるような闇の中を驀地《まっしぐら》に走りだした。園はストーブからかなり離れた席に腰かけて外套の襟を立てて、黙然として坐っていた。床の上を足を動かすたびに、先客の喰荒らした広東豆(南京豆のこと)の殻が気味悪くつぶれて音をたてた。車内の空気はもとより腐敗しきって、油燈の灯が震動に調子を合わせて明るくなったり暗くなったりした。



底本:「日本文学全集25 有島武郎集」集英社
   1968(昭和43)年4月12日発行
※底本の誤記と思われる部分は、角川文庫「星座」と筑摩書房「有島武郎全集 第5巻」中の「星座」を元に修正した。
入力:大野晋
校正:地田尚
2000年5月15日公開
2005年11月21日修正
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