れを見るとややあわてたような気持になって、衣嚢《かくし》の中から電報を取りだして、今度はその日附を調べてみた。十一月二十五日午前九時四十分の発信になっていた。
 園は手紙と電報とを机の上に戻しながら始めて座についた。そしてしばらくは手紙を開封することもなく、人さし指を立てて机の小端《こば》を軽く押えるように続けさまにたたきながら、じっと眼の前の壁を見つめていた。自分ながらそれが何んの真似だかよく解らなかった。しかしながらかねてからある不安なしにではなく考えていたことが、驀地《まっしぐら》に近づいてきているような一種の心の圧迫を感じ始めているのは明かだった。自分の研究に一頓挫《いちとんざ》が来そうな気持がしだいに深まっていった。
 園は父の手紙をわざと避けて、他の一通を取り上げてみた。それは絶えて久しい幼友だちの一人から送られたもので、園にとってはこの場合さして興味あるものではなかった。他の一通は書体で星野から来たものであるのが明かだった。園はせわしく封を破って、中から細字で書きこまれてある半紙三枚を取りだした。長い手紙であればあるほどその場合の園には便りが多かった。園は念を入れてその一字一句を読みはじめた。
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「皚々《がいがい》たる白雪山川を封じ了んぬ。筆端のおのずから稜峭《りょうしょう》たるまた已《や》むを得《え》ざるなり」
[#ここで字下げ終わり]
とそれは書きだしてあった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「昨夜二更一匹の狗子《くし》窓下に来ってしきりに哀啼《あいてい》す。筆硯《ひっけん》の妨げらるるを悪《にく》んで窓を開きみれば、一望月光裡《いちぼうげっこうり》にあり。寒威惨《かんいさん》として揺《ゆる》がず。かの狗子白毛にて黒斑《こくはん》、惶々乎《こうこうこ》とし屋壁に踞跼《きょきょく》し、四肢を側立て、眼を我に挙げ、耳と尾とを動かして訴えてやまず。その哀々《あいあい》の状《じょう》諦観視するに堪えず。彼はたして那辺《なへん》より来れる。思うに村人ことごとく眠り去って、灯影の漏るるところたまたま我が小屋あるのみ。彼行くに所なくして、あえてこの無一物裡に一物を庶幾《しょき》し来れるにあらざらんや。庭辺一片の食なし。かりに彼を屋内に招かば、狂弟の虐殺するところとならんのみ。我れの有するものただ一編の文章のみ。文章は畢竟《ひっきょう》彼において何するところぞ。我れついに断じて窓を閉ず。翌、かの狗子《くし》命を我が窓下に絶ちぬ。
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ああ何んぞ独《ひと》り狗子を言わんや。自然の物を遇するすべてまさにこのごとし。我が茅屋の中つねにかの狗子にだに如《し》かざるものを絶たず。日夜の哭啾《こくしゅう》聞こえざるに聞こゆ。筆を折って世とともに濁波を挙げて笑いかつ生きんとしたること幾度なりしを知らざるは、たまたま我が耿々《こうこう》の志少なきを語るものにすぎずといえども、あるいは少しく兄の憐みを惹《ひ》くものなきにしもあらじ。しかも古人の蹟を一顧すれば、たちまち慚汗《ざんかん》の背に流るるを覚ゆ。貧窮《ひんきゅう》、病弱《びょうじゃく》、菲才《ひさい》、双肩《そうけん》を圧し来って、ややもすれば我れをして後《しり》えに瞠若《どうじゃく》たらしめんとすといえども、我れあえて心裡の牙兵を叱咤《しった》して死戦することを恐れじ。『折焚く柴の記と新井白石』はかろうじて稿を了《おわ》るに近し。試験を終らば兄は帰省せん。もししからば幸いに稿を携《たずさ》え去って、四宮霜嶺先生に示すの機会を求むるの労を惜しまざれ。先生にして我が平生|忖度《そんたく》するところのごとくんば、この稿によって一点|霊犀《れいさい》の相通ずるあるを認めん。我が東上の好機もまたこれによって光明を見るに至らんやも保しがたし。さらに兄に依嘱《いしょく》しえべくんば、我が小妹のために一顧を惜しまざれ。彼女は我が一家の犠羊《ぎよう》なり。兄の知れるごとく今小樽にありてつぶさに辛酸《しんさん》を嘗《な》めつつあり。もしさらに一二年を放置せば、心身ともに萎靡《いび》し終らんとす。坐視《ざし》するに忍びざるものあり。幸いにして東京に良家のあるありて、彼女のために適所を供さば、たんに心身の更生《こうせい》を僥倖《ぎょうこう》しうるのみならず、その生得《しょうとく》の才能を発揮するの機縁に遇いうるやも計るべからず。我が望むところは、彼女が東上して円山氏につき、勤労に服するのかたわら、現代的智識の一班に通ずるを得ば、きわめて幸いなり」
[#ここで字下げ終わり]
 園はこれだけのことを読む間にも、幾度も自家の方のありさまを想像していた。想像したというよりは自分がずっと育ってきた東京郊外の田舎じみた景色や、父、母、兄などの面影《おもかげ》やが、見るように現われたり隠れたりしていた。そのために園は星野からの手紙を静かに読み終ることができないで、それを机の上に置いたなりで、細かく書連ねられた達者な字を見入りながら、だんだんと自分の家のことを思い耽《ふけ》りはじめた。
 あるかないかに薄い眉の上に、深い横皺を一本たたんで、黒白半ばするほどの髪毛のまだらに生え残った三分刈りの大きな頭を少し前こごみにして、じろりと横ざまに眼を走らしながら人の顔を見る父の顔……今年の夏休暇の終に見たその時の顔……その時、父と兄との間にはもう大きな亀裂《きれつ》が入っていて、いつも以上に不機嫌になっていた。兄は病気の加減もあったのかことさらに陰鬱《いんうつ》だった。若いくせに喘息《ぜんそく》が嵩《こう》じて肺気腫の気味になっていたが、ややともすると誰にも口をきかないで一日でも二日でも頑固に押し黙っているようなことがあった。園に対しては舐《な》めるような溺愛《できあい》を示すのに引きかえて、兄に対してはことごとに気持を悪るくしているらしい愛憎の烈しい母が、二人の中に挾まって、二人の間をかえってかき乱していた。いらいらしているのが指の先までも伝っているような様子で、驚くほど烈しく煙管《きせる》で吐月峰《とげっぽう》をたたきつけながら、自分のすぐ後ろにある座敷金庫から十円札を二枚取りだし、乞食にでもやるように、それを園の前に抛《ほう》りだして苦がりきっていた父の顔、それを取り上げるまでに園は自分でも解らぬような複雑した気持を味わねばならなかった。園が黙ったままお辞儀一つして、それに手を延ばすまでの一挙一動はもとより、どういう風に気持が動いているかを厳しく看守しながら、いささかでも父の権威を冒すような風があったら、そのままにはしておかないぞというように見えた父の顔……自分の生みの父ながら、あの眉の上の深い横皺は園にはこの上なくいやなものだった。どうかして鏡に向うようなことのあるたびごとに、園は自分の顔にそれが現われではしないかと神経質に注意した。年のせいか園にはなかった。しかし兄には明かにそれが出ていた。そういう父の顔……それが何よりも色濃く園の眼の前を離れなかった。死顔などはどうしても現われては来なかった。父の死んだということが第一不思議なほど信ぜられなかった。毎日葬式や命日というような儀式は見慣れてきてはいたけれども、自分の家から死者の出たのは、園が生まれてから始めてのことなので、よけいそうした感じが起らないのかもしれなかった。母の顔も平生のとおりの母の顔、兄の顔も今年の夏別れる時に見たままの兄の顔。玄関からなだら上りになった所に、重い瓦を乗せてゆがみかかった寺門がある。その寺門の左に、やや黄になった葉をつけたまま、高々とそそり立つ名物の「香い桜」。朝の光の中で園がそれを見返った時、荒くれて黝《くろ》ずんだその幹に千社札が一枚斜に貼りつけられてあって、その上を一匹の毛虫が匐《は》っていた。そんなことまでが、夏見たままの姿で園の眼の前に髣髴《ほうふつ》と現われでた。
 しかもこれらのあまりといえば変化のなさすぎるような心の印象《イメージ》の後には、何か忌々《いまいま》しい動揺が起ろうとしているように思えた。実際をいうと、園は帰京せずに、札幌で静かに父の死を弔《とむ》らいもし、一家の善後ということも考えてみたかったのだが「スグカエレ」という電文に背《そむ》くべき何らの理由もなかった。
 園は星野の手紙の下から父の手紙を取りだしてみた。封を切ろうとしたが何んのゆえともなくそれができなかった。どうもその中からは不意な事件が飛びだしてきて、準備のない園の心に、簡単に片づけることのできない混乱を与えそうでしかたがなかった。園はまた父の手紙を見つめたまま、右手の指で机の木端《こば》を敲《たた》きながら長く考えつづけた。
「とにかく今夜すぐ帰ろう」
 ふっとそういう考えが断定的にその心に起った。それだけのことを決心するのに何んでこれほど長く考えねばならなかったかというようなそれは簡単な決心だった。
 しかしそう決心すると同時に、園は心臓がきゅうに激しく打ちだして、顔が火照《ほて》るまでに慌ただしい心持になっていた。彼はそれをいまいましく思いながらもすぐ立ち上って部屋の中を片づけはじめた。しかしそこには別に片づけるというようなものもなかった。ズック製の旅鞄に、二枚の着換えを入れて、四冊の書物と日記帳とを加えて、手拭の類を収めると、そのほかにすることといっては、鍵のかかるところに鍵をかって、本箱の上に自分のと別にしてならべてある借用の書物を人見か柿江に頼んで返却してもらえばそれでいいのだった。彼は心の中にわくわくするようないやな気分を持ちながらも、割合に落ち着いた挙止でそれだけの仕事をすませた。そして机の上にあった三通の手紙を洋服の内衣嚢《うちかくし》に大事にしまいこんだ。机の上にはラムプとインキ壷と硯箱とのほかに何んにもなかった。そこで園はもう一度思い落しはないかと考えてみた。欠席届があった。彼はふたたび机の引出の錠を開けて、半紙を取りだしてそれを書いた。そしてそのついでに星野にあてて一枚の葉書を書いた。
「兄の手紙今夕落手。同時に父死去の電報を受取ったので今夜発ちます。御返事はあとから」
 しかし園はそう書いてくると、もう一つ書き添うべき大事なことのあるのに気づいた。それはおぬいさんのことだった。しかしそれは葉書には書きうることではなかった。すべてのことを知らせるのはあとからにしよう、そう思いながら園は星野への葉書を破って屑籠に抛《ほう》りこんだ。
 隣の部屋では人見たちが盛んに笑いながら大きな声で議論めいた話をしている。それに引きかえて、ずっと見廻わしてみた園の部屋は森閑《しんかん》として、片づきすぎるほど隅まで片づいていた。それを見ると園は父の死んだという事実をちらっと実感した。何んの意味もなく胸の迫るのを覚えた。しかしそれはすぐ通り過ぎてしまった。
 隣の部屋をノックして急な帰京を知らせると、そこにい合わせた三人は等しく立ち上って、少し頓狂《とんきょう》なほど興奮して園を玄関まで送ってきた。婆やは、食事がもうできるから食べていったらいいだろうと勧めながら、慌《あわ》てて下駄を引っかけて門の外まで送ってでた。そして袖口を顔に押しあてながら、遠くなるまで見送っていた。
 園は鞄一つをぶら下げて、もう十分に踏み固まっている雪道を足早に東に向いて歩いた。肘《ひじ》を押しまげて頭の上から強く打ち下そうとする衝動が、鞄を不必要に前後に揺り動かさした。彼は今夜という今夜、すべてのことをおぬいさんとその母とに申しでようという決心をやすやすとしてしまっていたのだ。それは東京に帰ろうと決めたと同時に、特別な考慮を廻らさないでも自然にでき上った決心だった。園はもとよりおぬいさんが彼をどう考えているかも知らなかった。その母がどう考えるかも考えてはみなかった。園はただおぬいさんを愛していることをこの十日ほどの間にはっきりと発見したのだ。彼は幾度かできるだけ冷静になって自分の気持を考えてもみ、容赦なく解剖してもみた。しかしそこに何らか軽薄な気持が動いていることを認めることが
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