喜びをじっと押し殺して、参謀の提出した方略を採用する指揮官のように、わざと落ちつき払いながら鉛筆を動かし始めた。今度こそはすべてが予期どおりに都合よく行きそうにみえた。一度分解した項式が結合をしなおして、だんだん単純化されていくところからみると、ついには単一の結論的項式に落ちつきそうにみえた。渡瀬は今まで口の中に入れていたゴムを所きらわず吐き捨てて、噛りつくように罫紙の上にのしかかった。
けれどもやはりむだだった。八分というところに来て、ようやく二つに纏《まと》め上げた項式をいよいよ一つに結び合せようとする段になって、どうしてもそれが不可能であるのを発見してしまった。
「畜生」
思わず渡瀬は鉛筆を紙の上にたたきつけてこう叫んだ。
「渡瀬さん、私はもう行きます」
その瞬間にこう鋭くいい放された新井田氏の声を聞いて、渡瀬はまたもや現実の世界に引き戻された。もうそこいらには新井田氏の癇癪《かんしゃく》の気分がいっぱいに漂っていた。渡瀬は思わず突っ立った。
「どうも私はこういうことは困りますな。なるほど研究には違いなかろうけれども、私のは機械がともかくできてさえくれればそれでいいんです。君のなさるようなことを、ここでこうしてぼんやり眺めていたところが、何んの薬にもなりませんから、私はごめん蒙《こうむ》ります。すっかり冷えこんでしまいましたお蔭で……」
「ははん、先生、腹立ちまぎれに明日から俺を抛《ほう》りだそうと考えているな。こりゃこうしちゃいられないぞ」……渡瀬の頭に咄嗟《とっさ》に浮んだのはこれだった。しかし彼は驚きはしなかった。彼にはこの危地から自分を救いだす方策はすぐにでき上っていた。彼は得意先を丸めこもうとする呉服屋のような意気で、ぴょこぴょこと頭を下げた。そのくせその言葉はずうずうしいまでに磊落《らいらく》だった。
「やあすみませんまったく。こちらに来るまでに計算はこのとおりやっておいて、結果が出るばかりになっていたのだから、すぐできるとたかをくくっていたんですが、……これで計算という奴は曲者ですからなあ。今日はそれじゃ僕は失敬して家でうん[#「うん」に傍点]と考えてみます。作るくらいならあんまり不器用な……」
「そりゃそうですとも、作る以上は完全なものにしたいのは私も同じことじゃありますが、計算までここでやってるんじゃ、私は手持|無沙汰《ぶさた》で、まどろっこしくって困りますよ」
計算だって研究の一つだい。道具を家で研《と》ぎすましておいて仕事場に来る大工があってたまるものか。いい加減な眼腐れ金をくれているのにつけあがって、我儘もほどほどにしろ。渡瀬は腹の中でこう思いながらも、顔つきにはその気配も見せなかった。
「じつは僕もこの仕事は早く片をつけたいんです。学校のラボラトリーでやっている実験ですが、五升芋《ごしょういも》(馬鈴薯《ばれいしょ》の地方名)から立派なウ※[#小書き片仮名ヰ、272−上−3]スキーの採《と》れる方法に成功しそうになっているんです。これがうまくゆきさえすれば、それもひとつ見ていただきたいと思っているもんだから……」
新らしがりと、好奇心と、慾との三調子で生きているような新井田氏にこれが訴えていかないはずがない。渡瀬は新井田氏の顔が、今までの冷やかにも倨傲《きょごう》な表情から、少し取り入るような――しかもその急激な変化に自分自身多少のうしろめたさを示さないではない――それに変っていくのを見てしすましたりと思った。
「それもまあそれでしょうがね。それにつけてもこっちの方を片づけていただかないじゃあね」
渋い顔には相違なかったが、それは喉《のど》の奥から手の出そうな渋い顔だった。発声蓄音機の方は成功したところが、そう需用《じゅよう》のたくさんありそうなものではない。日本酒が高価になるばかりな時節に、ウ※[#小書き片仮名ヰ、272−上−18]スキーは当るに違いない。これは新井田氏がすぐ気のつきそうなことだ。ウ※[#小書き片仮名ヰ、272−上−20]スキーという新時代のものらしい名前そのものも、新井田氏には十分の誘惑になっているはずだ。
渡瀬は計算用の原稿紙を一まとめにして懐ろにしまいこみながら、馬鈴薯から安価な焼酎《しょうちゅう》と、そのころ恐ろしく高価なウ※[#小書き片仮名ヰ、272−下−2]スキーとが造りだされる化学上の手続を素人《しろうと》わかりがするように話して聞かせた。新井田氏の顔はだんだん和らいできた。投機者には通有らしい、めまぐるしく動く大きな眼――それはもう一歩というところで詐欺師《さぎし》のそれと一致するものだが――の眼尻に、この人に意外な愛嬌を添える小皺ができはじめた。それは自分の意見に他人を牽《ひ》き寄せようとする時には、いつでも自然に現われてくるのだった。人相見にでもいわせたら、これはこの人が天から授かった徳相《とくそう》だとでもいうのだろう。
研究室はまったく寒い部屋だった。渡瀬は計算に夢中でいる間は少しも気がつかなかったが、これでは新井田氏が不平をこぼしたのもむりがないと思った。火鉢一つでは、こんな天井の高い家ではもう凌《しの》げる時節ではない。それに宵《よい》もだいぶふけたらしかった。おまけに酒の酔いもさめぎわになっていた。
玄関に来て帰りの挨拶をしかけると、新井田氏がきゅうに思いついたように、ちょっと待ってくれといってそそくさと奥にはいっていった。渡瀬はやむを得ずそこに突立って自分の下駄と新井田氏が脱ぎ捨てた履物《はきもの》とを較べなどしていた。その時頭のすぐ上で突然音がした。ちょっと驚いて見上げてみると玄関のつきあたりの少しすすけた白壁に、金縁の大きな丸時計がかかっていて、その金色の針がちょうど九時を指していた。玄関に時計をおくとは変な贅沢《ぜいたく》をしたもんだなあと思いながら、渡瀬はまじまじと大ぎょうな金色に輝くその懸時計を見守って値ぶみをしていた。
間もなく新井田氏が奥さんにつきまとわれるようにして出てきた。渡瀬が夕食の馳走になった部屋のドアが開けぱなしにしてあるので、生暖かい空気とともに、今まで女がいたらしいなまめかしい匂いが、遠慮なく寒い玄関の空気の中に漂いでてきた。
「どうもお待たせしてすみませんでした」
新井田氏の口調は、第三者の前でいつでも新井田氏が渡瀬に対してみせるあの尊大で同時に慇懃《いんぎん》な調子になっていた。
「今月の何んです、今月のお礼ですが、都合がいいから今夜お渡ししておきます。で、と、明日はおいでのない日でしたな。ところが明後日は私ちょっとはずせない用があるんですが、どうでしょう明日に繰り上げていただいちゃ、おさしさわりになりますか」
「ははん、活動写真は明日から廃業だな。先生ウ※[#小書き片仮名ヰ、273−上−21]スキーで夢中になっているな。子供だなあ」
月末にはまだ三日もある今夜|報酬《ほうしゅう》をくれるというのもそれで読めた。ところで俺の方からいうと、報酬を貰った以上、今月はもう来ないというのは予定の行動だ。
「ええ差支えありません。来ますとも」
「どうぞいらしってちょうだいね」
奥さんが……主人の加勢をするように主人には聞こえ、渡瀬を誘惑するように渡瀬には聞こえるそんな調子で。
「何しろ新井田は果報者だて」
渡瀬は往来に出て、寒い空気に触れるにつけて、暖かそうな奥さんの笑顔と肉体とを実感的に想像して、こう心の中で呟いた。けれども同時に、彼の懐ろの内も暖いのを彼は拒むことができなかった。あれだけをおっかあに渡して、あれだけを卯三公にやって、あれだけであの本を買って……と、残るぞ。二晩は遊べるな。……と、待てよ。きゅうにさっきまで考えつめていた計算のことが頭に浮んだ。ふむ……待てよ。渡瀬はたちまちすべてを忘れてしまった。数字の連なりが眼の前で躍りはじめた。渡瀬はしたり顔に一度首をかしげると、堅く腕を胸高に組合せて霜の花でもちらちら飛び交わしているかと冴えた寒空の下を、深く考えこみながら、南に向いてこつりこつりと歩いていった。
* * *
ガンベが「園にそうたびたびねだるのだけはやめろ、よ。あんなお坊ちゃんをいじめるのは貴様可哀そうじゃねえか。貴様ああんまりけち[#「けち」に傍点]だぞそれじゃ。俺なんざあこれで一度だって園にせびったことはないんだ。それに、まさかという時の用意に一人くらいとっときを作っておかないとうそだぞ貴様、はははは」といって笑ったことがあった。人見は隣りの園の部屋に行こうかと思って座を立ちかけた瞬間にこれを思いだした。しかし今の場合、園の所に行って話を持ちかけるほかに道がないのだ。
人見は痩せてひょろ長い体を机の前に立ちあがらせると、気持の悪い生欠伸《なまあくび》をした。彼は自体、園にこんなことをたびたび頼むのは、自分の見識からいっても、いかがなものだとは知っていたんだが、まず何んといっても一番無事に話のつきそうなのは、園のほかにはないのだからしかたがない。取りあってくれない奴だの、ばかにして話に乗らない奴だの、自分の金の不足になったことだけを知っていて、油を搾《しぼ》ろうとする奴だのにかかってはまったく面倒だ……それとももう一度婆やを泣かせようかとも思ったが、はした金にありつくのに、婆やの長たらしい泣き言を辛抱して聞いているのはやりきれない。やはり園が一番いい。すべての点において抵抗力が最も少ない。よかろう……人見は自分の部屋を出て、隣りの部屋のドアに手をかけた。また生欠伸が出た。
「園君いる?」
「ああ、はいりたまえ」
すぐこういう返事が小さく響いたが、机に向いたままでいっているらしく、声がゆがんで聞こえてきた。勉強をしているなとおもいながら、人見はそっと戸を開いた。
きちんと整頓《せいとん》した広い部屋の一隅に小さな机があって、ホヤの綺麗に掃除された置ラムプの光の下で、園ははたして落ち着いて書見していた。戸外では雨も雪もまじえない風がもの凄く吹きすさんでいたが、この部屋はしんみりとなごいていた。人見は音のしないように戸をたてると、静かに机の方によっていった。やがて園ははじめて顔を挙げて人見を見かえった。光に背いて暗らくはあったけれどもその顔には格別不快らしい色は見えないようにみえた。そして「ひどい風になったねえ」といいながら、静かに座を立って、座蒲団の上に敷きそえていた、毛布の畳んだのを火鉢の向うにおきなおした。人見はちょっと遠慮するような恰好でそれに坐った、それは園の体温でちょうどよく暖たまっていた。
綺麗に掃除されたラムプの油壷は瑠璃色《るりいろ》のガラスで、その下には乳色のガラスの台がついていた。ありきたりの品物だけれども、大事に取り扱われているためか、その瑠璃色の部分が透明で、美しい光沢を持っていた。骨を入れて蝙蝠傘《こうもりがさ》のような形に作った白紙の笠、これとてもありきたりのものだが、何んとなく清々《すがすが》しくって、注意してみると、一カ所、針の先でいくつとなく孔《あな》を明けた所があった。園が何か深く考えこみながら、無意識にその辺にあった縫針でいたずらをしたものに違いない。あの子供のように澄んだ眼でじっとラムプを見つめながら、ぷつりぷつりと乾いた西洋紙に孔を明けている園の様子が見えるようだった。
「何を勉強しているの」
園に対してはどうもひとりでに人見は声を柔らげなければならなかった。
「僕には少し方面ちがいのものだけれども、星野君が家に帰る時、読んでみろっておいていったものだから」と答えながら園は書物を裏返して表紙を人見に見せた。濃い藍の表紙に、金文字でたんに“Mutual《ミューチュアル》 Aid《エイド》”とだけ書いてあった。
「倫理学の問題でも取りあつかったものかい」
「著者は Prince P. Kropotkin という人で……」
「何、クロポトキン……それじゃ君、それは露西亜《ロシア》の有名な無政府主義者だ」
人見は星野や西山たちが議論する座に加わって、この人の名はたびたび耳に入れたのだが、自分
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