れることだった。で、自分を強《し》いるようにその物足らない気分を打ち消すために、先ほどから明るい障子に羽根を休めている蝿《はえ》に強く視線を集めようとした。その瞬間にしかし清逸は西山を呼びとめなければならない用事を思いついた。それは西山を呼びとめなければならないほどの用事であったのだろうか。とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分の喉《のど》から老人のようにしわがれた虚《うつ》ろな声の放たれるのを苦々《にがにが》しく聞いた。
「さあ園の奴まだいたかな」
 そう西山は大きな声で独語しながら、けたたましい音をたてて階子段を昇るけはいがしたが、またころがり落ちるように二階から降《お》りてきた。
「星野、園はいたからそういっておいたぞ」
 その声は玄関の方から叫ばれた。傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に何か柿江と笑い合う声がしたと思うと、野心家西山と空想家柿江とはもつれあってもう往来に出ているらしかった。
 清逸の心はこのささやかな攪拌《かくはん》の後に元どおり沈んでいった。一度聞耳を立てるために天井《てんじょう》に向けた顔をまた障子の方に向けなおした。
 十月の始めだ。けれども札幌
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