ことができなかった。園が出ていった戸口の方にもの憂《う》い視線を送りながら、このだだ広い汚ない家の中には自分一人だけが残っているのだなとつくづく思った。
 ふと身体じゅうを内部から軽く蒸《む》すような熱感が萌《きざ》してきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によって蝕《むしば》まれていきつつあるということを思い知らせた。喀血《かっけつ》の前にはきっとこの感じが先駆のようにやってくるのだった。
 清逸はわざと没義道《もぎどう》に身体を窓の方に激しく振り向けてみた。窓の障子はだいぶ高くなった日の光で前よりもさらに黄色く輝いていた。
 しかしどこに行ったのか、かの一匹の蝿はもうそこにはいなかった。
     *    *    *
 “Magna est veritas,et praevalebit.”
 それが銘《めい》だった。園はその夜|拉典《ラテン》語の字書をひいてはっきりと意味を知ることができた。いい言葉だと思った。
 段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄《てすり》もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のよう
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