てゆく見も知らぬ世界、而して遂には生活の渦中に溶けこんで何んの不思議でもなくなつて行くそれ等の不思議な變化、さうしたものが僅かな皮肉に包まれたやみがたい女性の執着によつて表現されてゐる。是等の作品の中には、作者の眞摯な藝術的熱情と必至的な創作慾とが感ぜられて快い。
 然し第二の作品に來ると、ある倦怠が感ぜられないでもない。「一粒の芥子種」「夜の浪」「淋しい二人」などがそれである。作者はこゝで自分の持つてゐるものを現はすために不必要な多くの道具立てに依らうとした所が見える。それは現さうとするものが、まだ十分に咀嚼されてゐないのを示してゐる。固よりかゝる作に於ても仙子氏は自分のよい本質から全く迷ひ出てはゐない。ある個所に來ると心ある讀者は一字々々にしがみ附かないではゐられなくなる。「淋しい二人」の中の秋の景色の描寫の如きは、今まで提供された秋の描寫のどれに比べて見ても決して耻づる必要のないものであるとうなづかされる。けれども全體としての感銘は、作者の生活にある一時的なゆるみが起つたのを感じさせないではおかない。
 作者の畏れなければならないのはその人の生活だといふことを今更らの如く感ずる。第二の作品に比べると、私の意味する第三の作品は何んといふ相違だらう。それは作者の生活がある強い緊張の中にあつたことを十分に感得させる。殊に私は「道」とか「嘘をつく日」とか「輝ける朝」などに感心してしまつた。「道」の如きは、あれ一つだけで仙子氏の藝術家としての存在を十分に可能ならしむるに足ると思ふ。あの無容赦な自己批判、その批判の奧から痛々しく沁み出て來る如何することも出來ない運命の桎梏と複雑な人間性。而してその又奧から滲み出て來る心の美しい飛躍。そこには確かに生命の裏書きのしてある情景がある。それは單なる諦觀ではない。壞れるものを壞し終つた後に嚴然として殘る生活への肯定である。あゝいふ作品を一つ書き上げることがどれ程の痛い體驗と苦悶とを値したか。それは恐らく創作の經驗を有つものがおぼろげながら察し得る境地だらう。「輝ける朝」「嘘をつく日」これらは作者の性格のまがう方なき美しさをはつきりと、而かも何等の矯飾なく暴露してゐる。こんな作を生んで死んで行つたこの若い作者は尊い。あんな涙を心にためてゐながら、うつかり眼に浮かせなかつた程奧行の深かつたその性格は美しい。あすこまで行くと仙子氏は概念
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