蒼《まっさお》で、手がぶるぶる震えて、八っちゃんの顔が真紅《まっか》で、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人ぼっちになってしまったようで、我慢のしようもなく涙が出た。
 お母さんは僕がべそをかき始めたのに気もつかないで、夢中になって八っちゃんの世話をしていなさった。婆やは膝《ひざ》をついたなりで覗《のぞ》きこむように、お母さんと八っちゃんの顔とのくっつき合っているのを見おろしていた。
 その中《うち》に八っちゃんが胸にあてがっていた手を放して驚いたような顔をしたと思ったら、いきなりいつもの通りな大きな声を出してわーっと泣き出した。お母さんは夢中になって八っちゃんをだきすくめた。婆やはせきこんで、
「通りましたね、まあよかったこと」
 といった。きっと碁石がお腹《なか》の中にはいってしまったのだろう。お母さんも少し安心なさったようだった。僕は泣きながらも、お母さんを見たら、その眼に涙が一杯たまっていた。
 その時になってお母さんは急に思い出したように、婆やにお医者さんに駈けつけるようにと仰有った。婆やはぴょこぴょこと幾度《いくど》も頭を下《さげ》て、前垂《まえだれ》で、顔をふきふき立って行った。
 泣きわめいている八っちゃんをあやしながら、お母さんはきつい眼をして、僕に早く碁石をしまえと仰有った。僕は叱《しか》られたような、悪いことをしていたような気がして、大急ぎで、碁石を白も黒もかまわず入れ物にしまってしまった。
 八っちゃんは寝床の上にねかされた。どこも痛くはないと見えて、泣くのをよそうとしては、また急に何か思い出したようにわーっと泣き出した。そして、
「さあもういいのよ八っちゃん。どこも痛くはありませんわ。弱いことそんなに泣いちゃあ。かあちゃんがおさすりしてあげますからね、泣くんじゃないの。……あの兄さん」
 といって僕を見なすったが、僕がしくしくと泣いているのに気がつくと、
「まあ兄さんも弱虫ね」
 といいながらお母さんも泣き出しなさった。それだのに泣くのを僕に隠して泣かないような風《ふう》をなさるんだ。
「兄さん泣いてなんぞいないで、お坐蒲団《ざぶとん》をここに一つ持って来て頂戴《ちょうだい》」
 と仰有った。僕はお母さんが泣くので、泣くのを隠すので、なお八っちゃんが死ぬんではないかと心配になってお母さんの仰有るとおりにしたら、ひょっとして八っちゃんが助かるんではないかと思って、すぐ坐蒲団を取りに行って来た。
 お医者さんは、白い鬚《ひげ》の方のではない、金縁《きんぶち》の眼がねをかけた方のだった。その若いお医者さんが八っちゃんのお腹《なか》をさすったり、手くびを握ったりしながら、心配そうな顔をしてお母さんと小さな声でお話をしていた。お医者の帰った時には、八っちゃんは泣きづかれにつかれてよく寝てしまった。
 お母さんはそのそばにじっと坐《すわ》っていた。八っちゃんは時々|怖《こ》わい夢でも見ると見えて、急に泣き出したりした。
 その晩は僕は婆やと寝た。そしてお母さんは八っちゃんのそばに寝なさった。婆やが時々起きて八っちゃんの方に行《ゆ》くので、折角《せっかく》眠りかけた僕は幾度も眼をさました。八っちゃんがどんなになったかと思うと、僕は本当に淋《さび》しく悲しかった。
 時計が九つ打っても僕は寝られなかった。寝られないなあと思っている中《うち》に、ふっと気が附《つ》いたらもう朝になっていた。いつの間に寝てしまったんだろう。
「兄さん眼がさめて」
 そういうやさしい声が僕の耳許《みみもと》でした。お母さんの声を聞くと僕の体はあたたかになる。僕は眼をぱっちり開いて嬉《うれ》しくって、思わず臥《ね》がえりをうって声のする方に向いた。そこにお母さんがちゃんと着がえをして、頭を綺麗《きれい》に結《い》って、にこにことして僕を見詰めていらしった。
「およろこび、八っちゃんがね、すっかりよくなってよ。夜中にお通じがあったから碁石が出て来たのよ。……でも本当に怖《こわ》いから、これから兄さんも碁石だけはおもちゃにしないで頂戴ね。兄さん……八っちゃんが悪かった時、兄さんは泣いていたのね。もう泣かないでもいいことになったのよ。今日こそあなたがたに一番すきなお菓子をあげましょうね。さ、お起き」
 といって僕の両脇に手を入れて、抱き起《おこ》そうとなさった。僕は擽《くすぐ》ったくってたまらないから、大きな声を出してあははあははと笑った。
「八っちゃんが眼をさましますよ、そんな大きな声をすると」
 といってお母さんはちょっと真面目《まじめ》な顔をなさったが、すぐそのあとからにこにこして僕の寝間着を着かえさせて下さった。



底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行
底本の親本:「一房の葡萄」叢文閣
   1922(大正11)年6月
入力:鈴木厚司
校正:地田尚
2000年10月18日公開
2005年11月18日修正
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