ちゃんが助かるんではないかと思って、すぐ坐蒲団を取りに行って来た。
お医者さんは、白い鬚《ひげ》の方のではない、金縁《きんぶち》の眼がねをかけた方のだった。その若いお医者さんが八っちゃんのお腹《なか》をさすったり、手くびを握ったりしながら、心配そうな顔をしてお母さんと小さな声でお話をしていた。お医者の帰った時には、八っちゃんは泣きづかれにつかれてよく寝てしまった。
お母さんはそのそばにじっと坐《すわ》っていた。八っちゃんは時々|怖《こ》わい夢でも見ると見えて、急に泣き出したりした。
その晩は僕は婆やと寝た。そしてお母さんは八っちゃんのそばに寝なさった。婆やが時々起きて八っちゃんの方に行《ゆ》くので、折角《せっかく》眠りかけた僕は幾度も眼をさました。八っちゃんがどんなになったかと思うと、僕は本当に淋《さび》しく悲しかった。
時計が九つ打っても僕は寝られなかった。寝られないなあと思っている中《うち》に、ふっと気が附《つ》いたらもう朝になっていた。いつの間に寝てしまったんだろう。
「兄さん眼がさめて」
そういうやさしい声が僕の耳許《みみもと》でした。お母さんの声を聞くと僕の体はあたたかになる。僕は眼をぱっちり開いて嬉《うれ》しくって、思わず臥《ね》がえりをうって声のする方に向いた。そこにお母さんがちゃんと着がえをして、頭を綺麗《きれい》に結《い》って、にこにことして僕を見詰めていらしった。
「およろこび、八っちゃんがね、すっかりよくなってよ。夜中にお通じがあったから碁石が出て来たのよ。……でも本当に怖《こわ》いから、これから兄さんも碁石だけはおもちゃにしないで頂戴ね。兄さん……八っちゃんが悪かった時、兄さんは泣いていたのね。もう泣かないでもいいことになったのよ。今日こそあなたがたに一番すきなお菓子をあげましょうね。さ、お起き」
といって僕の両脇に手を入れて、抱き起《おこ》そうとなさった。僕は擽《くすぐ》ったくってたまらないから、大きな声を出してあははあははと笑った。
「八っちゃんが眼をさましますよ、そんな大きな声をすると」
といってお母さんはちょっと真面目《まじめ》な顔をなさったが、すぐそのあとからにこにこして僕の寝間着を着かえさせて下さった。
底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行
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