つた。堤の壞れた所を物の五十間ほども土俵で喰ひ留めた、その土俵の藁は半ば土になつて、畑中に盛り上つた砂の間からは、所々に一かたまりになつて、大根の花が薄紫に咲き出て居た。彼れはこの小さな徴《しるし》にも自然の力の大きさと強さとを感受した。而して彼れは今更のやうに立停つてあたりを見まはした。百姓の捨てた畑の砂の上には、怒り狂つた川浪の姿が去年のまゝに殘つてゐた。その浪がこの邊に住んでゐた百姓の一人息子を容赦なく避難の小舟から奪ひ去つたのだ。沈澱した砂は片栗粉のやうにぎつしり[#「ぎつしり」に傍点]と堆積して雜草も生えて居なかつた。何んにも知らないやうな顏をしてゐる。今まで親しみ慣れた自然とは大分違つた感じが彼れの胸を打つた。
 固より彼れは自然とも戰ふべきものだと云ふ事を忘れてゐたのではない。然し彼れは人間と自然とを離して考へてゐた。人間の理解から孤獨となる事が自然と離縁する事にもなるとは思はなかつた。彼れはその瞬間まで人間から失つた所を自然から補はせる事が出來ると思ひ込んでゐたのだ。
 彼れはそこに立つてあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はしたが、人の姿は何處にも見當らなかつた。細長い橋を痩腕のやうに延ばして横になつてゐる町がかすかになつて川下に見えるばかりだつた。
 彼れはしんみり[#「しんみり」に傍点]した心になつてじつと[#「じつと」に傍点]それを見た。その町で人力車に乘らうとしたが蝦蟇口の中の錢が足りないのを恐れて乘らなかつた事をも思ひ出してゐた。
 彼れは彼れの大望と云ふ力に誘はれてそこまで來てゐるのだと云ふ事を更らに思つて見た。
 大望とは何だ。
 一つの意志だ。
 否、彼自身だ。
 そんなら何んで彼れは自身の前に躊躇するのだ。
 神か。
 彼れは頭に一撃を加へられたやうに頸をすくめてもう一度あたりを見まはした。
 つばな[#「つばな」に傍点]を野に取りに出て失望した記憶がふと浮んで來た。手にあまる程取つて歸つた翌日から三日ばかり雨が降つたので、外出せずにゐて出て行つて見ると、つばな[#「つばな」に傍点]は皆んなほうけてしまつてゐた。大望がほうけたら如何する。彼れは再び氣を取直して川上の方へ向き直りながら、かう心の中でつぶやいて、自分自身の胸に苦がい心持ちを瀉ぎ入れた。
 暫らく行くとちよろ[#「ちよろ」に傍点]/\としか水の流れない支流に出遇つて彼れは自から川の本流に別れねばならなかつた。支流に沿うても、小さな土手が新らしく築かれてゐた。石垣の上の赤土はまだ風化せずに、どんより[#「どんより」に傍点]した空の下にあつても赤かつた。彼れはそのかん/\堅くなつた赤土の上を――彼れならぬ他人のした事業の上を踏みしめ/\歩いて行つた。
 土手には一間ほどづつ隔てゝ落葉松が植ゑつけてあつた。而してその土手の上を通行すべからずと云ふ制札が立てゝあつた。行きつまる所には支流に小さな柴橋が渡してあつて、その側に小ざつぱりした百姓家が立つてゐた。彼れは垣根から中を覗き込んで見た。垣根に沿うて花豆の植ゑてあるのが見えた。
 彼れも自分の庭の隅に花豆を植ゑて置いた。その自分の花豆は胚葉が出たばかりであるのに、此所の花豆はもう大きな暗緑の葉を三つづゝも擴げてゐた。
 彼れは鋭く孤獨を感じながら歩いて行つた。彼れの歩き方は然し大跨でしつかりしてゐた。彼れは正しく彼れの大望に勵まされてゐるやうに見えた。
 柴橋は渡られた。
 眼の前の展望は段々狹まつて、行手の右側には街道と並行に山の裾が逼り出した。
 彼れは其大望の成就の爲めには牢獄に投げ入れられる事を前から覺悟してゐた。牢獄生活の空想は度々彼れの頭に釀された。牢獄も如何する事も出來ない孤獨と、其孤獨の報酬たるべき自由とが、暗く、冷たい、厚い牢獄の壁を劈いて勝手に流れ漂ふのを想像するのは、彼れの一番快い夢だつた。
 然しその時彼れはその夢を疑はないではゐられない程の親しみを以て路傍の小さな井戸を見た。その井戸は三尺にも足らない程の淺さで、井戸がはも半分腐つてゐたが、綺麗に掃除が行き屆いてゐて、林檎箱のこはれで造つたいさゝかのながし[#「ながし」に傍点]も塵一つ溜つてゐなかつた。彼れは其處に人の住んでゐる事を今まで感じた事のないやうな感じ方で強く感じた。牢獄はこんな親しみのある場面を彼れの眼から遠けるだらう。
 彼れは彼れの孤獨の自由を使つて、牢獄からこの井戸の傍に來る事が出來るであらうか。
 とう/\雨が落ちて來た。遠い所から、木の葉をゆする風につれて、ひそやかな雨の脚が近づいた。
 彼れの方に向つて雨の脚は近づいて來た。彼れは雨の方に向つて足を早めた。白く塵ばんだ街道は見る中に赤黒く變つて行つて、やがて凹んだ所に水溜りが出來、それがちよろ[#「ちよろ」に傍点]/\と流れ
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