流に出遇つて彼れは自から川の本流に別れねばならなかつた。支流に沿うても、小さな土手が新らしく築かれてゐた。石垣の上の赤土はまだ風化せずに、どんより[#「どんより」に傍点]した空の下にあつても赤かつた。彼れはそのかん/\堅くなつた赤土の上を――彼れならぬ他人のした事業の上を踏みしめ/\歩いて行つた。
 土手には一間ほどづつ隔てゝ落葉松が植ゑつけてあつた。而してその土手の上を通行すべからずと云ふ制札が立てゝあつた。行きつまる所には支流に小さな柴橋が渡してあつて、その側に小ざつぱりした百姓家が立つてゐた。彼れは垣根から中を覗き込んで見た。垣根に沿うて花豆の植ゑてあるのが見えた。
 彼れも自分の庭の隅に花豆を植ゑて置いた。その自分の花豆は胚葉が出たばかりであるのに、此所の花豆はもう大きな暗緑の葉を三つづゝも擴げてゐた。
 彼れは鋭く孤獨を感じながら歩いて行つた。彼れの歩き方は然し大跨でしつかりしてゐた。彼れは正しく彼れの大望に勵まされてゐるやうに見えた。
 柴橋は渡られた。
 眼の前の展望は段々狹まつて、行手の右側には街道と並行に山の裾が逼り出した。
 彼れは其大望の成就の爲めには牢獄に投げ入れられる事を前から覺悟してゐた。牢獄生活の空想は度々彼れの頭に釀された。牢獄も如何する事も出來ない孤獨と、其孤獨の報酬たるべき自由とが、暗く、冷たい、厚い牢獄の壁を劈いて勝手に流れ漂ふのを想像するのは、彼れの一番快い夢だつた。
 然しその時彼れはその夢を疑はないではゐられない程の親しみを以て路傍の小さな井戸を見た。その井戸は三尺にも足らない程の淺さで、井戸がはも半分腐つてゐたが、綺麗に掃除が行き屆いてゐて、林檎箱のこはれで造つたいさゝかのながし[#「ながし」に傍点]も塵一つ溜つてゐなかつた。彼れは其處に人の住んでゐる事を今まで感じた事のないやうな感じ方で強く感じた。牢獄はこんな親しみのある場面を彼れの眼から遠けるだらう。
 彼れは彼れの孤獨の自由を使つて、牢獄からこの井戸の傍に來る事が出來るであらうか。
 とう/\雨が落ちて來た。遠い所から、木の葉をゆする風につれて、ひそやかな雨の脚が近づいた。
 彼れの方に向つて雨の脚は近づいて來た。彼れは雨の方に向つて足を早めた。白く塵ばんだ街道は見る中に赤黒く變つて行つて、やがて凹んだ所に水溜りが出來、それがちよろ[#「ちよろ」に傍点]/\と流れ
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