こっちにお出《い》で」と肱《ひじ》の所を掴《つか》まれていました。僕の胸は宿題をなまけたのに先生に名を指《さ》された時のように、思わずどきんと震えはじめました。けれども僕は出来るだけ知らない振りをしていなければならないと思って、わざと平気な顔をしたつもりで、仕方なしに運動場《うんどうば》の隅《すみ》に連れて行かれました。
「君はジムの絵具を持っているだろう。ここに出し給《たま》え。」
 そういってその生徒は僕の前に大きく拡《ひろ》げた手をつき出しました。そういわれると僕はかえって心が落着いて、
「そんなもの、僕持ってやしない。」と、ついでたらめをいってしまいました。そうすると三四人の友達と一緒に僕の側《そば》に来ていたジムが、
「僕は昼休みの前にちゃんと絵具箱を調べておいたんだよ。一つも失《な》くなってはいなかったんだよ。そして昼休みが済んだら二つ失くなっていたんだよ。そして休みの時間に教場にいたのは君だけじゃないか。」と少し言葉を震わしながら言いかえしました。
 僕はもう駄目《だめ》だと思うと急に頭の中に血が流れこんで来て顔が真赤《まっか》になったようでした。すると誰だったかそこに立っていた一人がいきなり僕のポッケットに手をさし込もうとしました。僕は一生懸命にそうはさせまいとしましたけれども、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》で迚《とて》も叶《かな》いません。僕のポッケットの中からは、見る見るマーブル球《だま》(今のビー球《だま》のことです)や鉛のメンコなどと一緒に二つの絵具のかたまりが掴み出されてしまいました。「それ見ろ」といわんばかりの顔をして子供達は憎らしそうに僕の顔を睨《にら》みつけました。僕の体《からだ》はひとりでにぶるぶる震えて、眼の前が真暗《まっくら》になるようでした。いいお天気なのに、みんな休時間を面白そうに遊び廻っているのに、僕だけは本当に心からしおれてしまいました。あんなことをなぜしてしまったんだろう。取りかえしのつかないことになってしまった。もう僕は駄目だ。そんなに思うと弱虫だった僕は淋《さび》しく悲しくなって来て、しくしくと泣き出してしまいました。
「泣いておどかしたって駄目だよ」とよく出来る大きな子が馬鹿にするような憎みきったような声で言って、動くまいとする僕をみんなで寄ってたかって二階に引張って行こうとしました。僕は出来るだけ行くまいとした
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