らそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私《わたくし》のこのお部屋に入らっしゃい。静かにしてここに入らっしゃい。私が教場から帰るまでここに入らっしゃいよ。いい。」と仰りながら僕を長椅子《ながいす》に坐《すわ》らせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、僕の方を見ていられましたが、二階の窓まで高く這《は》い上《あが》った葡萄蔓《ぶどうづる》から、一房《ひとふさ》の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝《ひざ》の上にそれをおいて静かに部屋を出て行きなさいました。

     三

 一時《いちじ》がやがやとやかましかった生徒達はみんな教場《きょうじょう》に這入《はい》って、急にしんとするほどあたりが静かになりました。僕は淋《さび》しくって淋しくってしようがない程《ほど》悲しくなりました。あの位好きな先生を苦しめたかと思うと僕は本当に悪いことをしてしまったと思いました。葡萄《ぶどう》などは迚《とて》も喰《た》べる気になれないでいつまでも泣いていました。
 ふと僕は肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋《へや》でいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。少し痩《や》せて身長《せい》の高い先生は笑顔《えがお》を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、慌《あわ》てて膝の上から辷《すべ》り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して笑いも何も引込んでしまいました。
「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたはお帰りなさい。そして明日《あす》はどんなことがあっても学校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと私《わたくし》は悲しく思いますよ。屹度《きっと》ですよ。」
 そういって先生は僕のカバンの中にそっと葡萄の房を入れて下さいました。僕はいつものように海岸通りを、海を眺《なが》めたり船を眺めたりしながらつまらなく家《いえ》に帰りました。そして葡萄をおいしく喰べてしまいました。
 けれども次の日が来ると僕は中々学校に行く気にはなれませんでした。お腹《なか》が痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、
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