いこけるようにぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
 と、女将《おかみ》は急にまじめに返って倉地に向かい、
 「こちらはきょうの報正新報を……」
 といいかけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場《どたんば》で踏みとどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
 「何」
 と尻《しり》上がりに問い返した。
 「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」
 と女将《おかみ》は事もなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
 倉地と女将との間に一別以来のうわさ話がしばらくの間《あいだ》取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に、
 「お前もう寝ろ」
 といった。葉子は倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人《ふたり》の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手《じょうず》にまとめようというについての相談だという事がのみ込めていたので、素直《すなお》に立って座をはずした。
 中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきり[#「はっきり」に傍点]もれて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっ[#「じっ」に傍点]と耳を傾けないではいられなかった。
 何かの話のついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携《てさ》げに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。あれには「報正新報」の切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。
 「なんだあいつも知っとったのか」
 思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
 「道理でさっき[#「さっき」に傍点]私がこの事をいいかけるとあの方《かた》が目で留めたんですよ。やはり先方《あちら》でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
 そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
 葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返してふとんを耳までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。

    二四

 その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織《はおり》だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒《うばぐろ》の縮緬《ちりめん》の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜《よ》ふかしにも係わらずその朝早く横浜のほうに出かけたあとだった。きょうも空は菊|日和《びより》とでもいう美しい晴れかたをしていた。
 葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦《れんが》通りに出てからきれいそうな辻待《つじま》ちを傭《やと》ってそれに乗った。そして池《いけ》の端《はた》のほうに車を急がせた。定子を目の前に置いて、その小さな手をなでたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶ事を思うと葉子の胸はわれにもなくただわくわくとせき込んで来た。眼鏡橋《めがねばし》を渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝《ひざ》の上に乗せた土産《みやげ》のおもちゃや小さな帽子などをやきもき[#「やきもき」に傍点]しながらひねり回したり、膝掛《ひざか》けの厚い地《じ》をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と握り締めたりして、はやる心を押ししずめようとしてみるけれどもそれをどうする事もできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々《かどかど》でさしずした。そして岩崎《いわさき》の屋敷裏にあたる小さな横町の曲がりかどで車を乗り捨てた。
 一か月の間《あいだ》来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈《かいわい》が少しも変化しないで元のとおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝《こみぞ》に沿うて根ぎわの腐れた黒板塀《くろいたべい》の立ってる小さな寺の境内《けいだい》を突っ切って裏に回ると、寺の貸し地面にぽっつり[#「ぽっつり」に傍点]立った一|戸建《こだ》ての小家が乳母《うば》の住む所だ。没義道《もぎどう》に頭を切り取られた高野槇《こうやまき》が二本|旧《もと》の姿で台所前に立っている、その二本に干《ほ》し竿《ざお》を渡して小さな襦袢《じゅばん》や、まる洗いにした胴着《どうぎ》が暖かい日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろとたわいもなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと垣根《かきね》から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人《ひとり》、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせ[#「せっせ」に傍点]と少しばかりのこわれおもちゃをいじくり回していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――わき目もふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房《にょうぼう》、汗をしとどにたらしながら坂道に荷車を押す出稼《ともかせ》ぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一目見たばかりで、人間力ではどうする事もできない悲しい出来事にでも出あったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。
 「定《さあ》ちゃん」
 涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくりして後ろを振り向いた時には、葉子は戸をあけて入り口を駆け上がって定子のそばにすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華車《きゃしゃ》作りな定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然そば近くに現われたのに気を奪われた様子で、とみには声も出さずに驚いて葉子を見守った。
 「定《さあ》ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人でおとなにして……」
 もう声が続かなかった。
 「ママちゃん」
 そう突然大きな声でいって定子は立ち上がりざま台所のほうに駆けて行った。
 「婆《ばあ》やママちゃんが来たのよ」
 という声がした。
 「え!」
 と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした婆やが、かぶっていた手ぬぐいを頭《つむり》からはずしながらころがり込むようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
 「ちょっと定ちゃんをこっちにお貸し」
 しばらくしてから葉子は定子を婆《ばあ》やの膝《ひざ》から受け取って自分のふところに抱きしめた。
 「お嬢さま……私にはもう何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わかりませんが、私はただもうくやしゅうございます。……どうしてこう早くお帰りになったんでございますか……皆様のおっしゃる事を伺っているとあんまり[#「あんまり」に傍点]業腹《ごうはら》でございますから……もう私は耳をふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年を取りますと腑《ふ》に落ちる気づかいはございません。でもまあおからだがどうかと思ってお案じ申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました……何しろ定子様がおかわいそうで……」
 葉子におぼれきった婆やの口からさもくやしそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子はさびしい心持ちで聞かねばならなかった。耄碌《もうろく》したと自分ではいいながら、若い時に亭主《ていしゅ》に死に別れて立派に後家《ごけ》を通して後ろ指一本さされなかった昔気質《むかしかたぎ》のしっかり[#「しっかり」に傍点]者だけに、親類たちの陰口やうわさで聞いた葉子の乱行にはあきれ果てていながら、この世でのただ一人《ひとり》の秘蔵物として葉子の頭から足の先までも自分の誇りにしている婆やの切《せつ》ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、しとやか[#「しとやか」に傍点]な、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。ことに婆やと定子とを目の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活をながめると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
 しかし同時に倉地の事をちょっとでも思うと葉子の血は一時にわき立った。平穏な、その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しもしない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取りかえっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でもどうする事もできない強い感情になって、葉子の心を本能的に煽《あお》ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難もなく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙もろく、ある時には極端に残虐だった。まるで二人《ふたり》の人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うような事もあった。それが時にはいまいましかった、時には誇らしくもあった。
 「定《さあ》ちゃま。ようこざいましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字もおっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]考えてでもいらっしゃるようなのがおかわいそうで、一時はおからだでも悪くなりはしないかと思うほどでした。こんなでもなかなか心は働いていらっしゃるんですからねえ」
 と婆やは、葉子の膝《ひざ》の上に巣食うように抱かれて、黙ったまま、澄んだひとみで母の顔を下からのぞくようにしている定子と葉子とを見くらべながら、述懐めいた事をいった。葉子は自分の頬《ほお》を、暖かい桃の膚のように生毛《うぶげ》の生えた定子の頬にすりつけながら、それを聞いた。
 「お前のその気象でわからないとおいいなら、くどくどいったところがむだかもしれないから、今度の事については私なんにも話すまいが、家の親類たちのいう事なんぞはきっと気にしないでおくれよ。今度の船には飛んでもない一人の奥さんが乗り合わしていてね、その人がちょっとした気まぐれからある事ない事取りまぜてこっちにいってよこしたので、事あれかしと待ち構えていた人たちの耳にはいったんだから、これから先だってどんなひどい事をいわれるかしれたもんじゃないんだよ。お前も知ってのとおり私は生まれ落ちるとからつむじ曲がりじゃあったけれども、あんなに周囲《まわり》からこづき回されさえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それはだれよりもお前が知ってておくれだわね。これからだって私は私なりに押し通すよ。だれがなんといったって構うもんですか。そのつもりでお前も私を見ていておくれ。広い世の中に私がどんな失策《しくじり》をしでかしても、心から思いやってくれるのはほんとうにお前だけだわ。……今度からは私もちょいちょい来るだろうけれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、定《さあ》ちゃん。よく婆《ばあ》やのいう事を聞いていい子になってちょうだいよ。ママちゃんはここにいる時でもいない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。……さ、もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のおしたくでもしましょうね。きょうはママちゃんがおいしいごちそうをこしらえて上げるから定《さあ》ちゃんも手伝いしてちょうだいね」
 そういって葉子は気軽そうに立ち上がって台所のほうに定子と連れだった。婆やも立ち上がりはしたがその顔は妙に冴《さ》えなかった。そして台所で働きながらややとも
前へ 次へ
全47ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング