が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠のいていた新聞紙を物珍しいものに思ってざっと目をとおし始めた。
一面にはその年の六月に伊藤《いとう》内閣と交迭してできた桂《かつら》内閣に対していろいろな注文を提出した論文が掲げられて、海外通信にはシナ領土内における日露《にちろ》の経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗概《こうがい》などが見えていた。二面には富口《とみぐち》という文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚醒《かくせい》」という続き物の論文を載せていた。福田《ふくだ》という女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子《よさのあきこ》女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。
三面に来ると四号活字で書かれた木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、11−16]《きべこきょう》という字が目に着いたので思わずそこを読んで見る葉子はあっ[#「あっ」に傍点]と驚かされてしまった。
○某大汽船会社船中の大怪事
事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
船客は木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、12−2]の先妻
こういう大業《おおぎょう》な標題がまず葉子の目を小痛《こいた》く射つけた。
[#ここから1字下げ]
「本邦にて最も重要なる位置にある某汽船会社の所有船○○丸の事務長は、先ごろ米国航路に勤務中、かつて木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、12−5]に嫁《か》してほどもなく姿を晦《くら》ましたる莫連《ばくれん》女某が一等船客として乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰りたる怪事実あり。しかも某女といえるは米国に先行せる婚約の夫《おっと》まである身分のものなり。船客に対して最も重き責任を担《にな》うべき事務長にかかる不埒《ふらち》の挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、その汽船会社の体面にも影響する由々《ゆゆ》しき大事なり。事の仔細《しさい》はもれなく本紙の探知したる所なれども、改悛《かいしゅん》の余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道《ちくしょうどう》に陥りたる二人《ふたり》を懲戒し、併《あわ》せて汽船会社の責任を問う事とすべし。読者請う刮目《かつもく》してその時を待て」
[#ここで字下げ終わり]
葉子は下くちびるをかみしめながらこの記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰り戻《もど》して見ると、麗々《れいれい》と「報正新報」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りのために爪《つめ》の先まで青白くなって、抑《おさ》えつけても抑えつけてもぶるぶると震え出した。「報正新報」といえば田川《たがわ》法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人という女はどこまで執念《しゅうね》く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先鞭《せんべん》をつけておくためと、読者の好奇心をあおるためとに、いち早くあれだけの記事を載せて、田川夫人からさらにくわしい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう推《すい》した。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表はもみ消さなければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意をこめてさせている仕事だとして見ると、どの道《みち》書かずにはおくまいと思われた。郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こういちずに思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。
「お掃除《そうじ》ができました」
そう襖越《ふすまご》しにいいながらさっきの女中は顔も見せずにさっさ[#「さっさ」に傍点]と階下《した》に降りて行ってしまった。葉子は結局それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、自分の部屋《へや》に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、はたきまでが違《ちが》い棚《だな》の下におき忘られていた。過敏にきちょうめんできれい好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱき[#「てきぱき」に傍点]とそこいらを片づけて置いて、パラソルと手携《てさ》げを取り上げるが否やその宿を出た。
往来に出るとその旅館の女中が四五人早じまいをして昼間《ひるま》の中を野毛山《のげやま》の大神宮のほうにでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と朝の掃除を急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんという事なしにさびしく思った。
帯の間にはさんだままにしておいた新聞の切り抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手携《てさ》げにしまいかえた。旅館は出たがどこに行こうというあて[#「あて」に傍点]もなかった葉子はうつむいて紅葉坂《もみじざか》をおりながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解《しもどけ》けになった土を一足《ひとあし》一足突きさして歩いて行った。いつのまにかじめじめした薄《うす》ぎたない狭い通りに来たと思うと、はしなくもいつか古藤と一緒に上がった相模屋《さがみや》の前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置《お》き行燈《あんどん》の紙までがその時のままですすけていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日ははなやかに照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋をにぎやかに往来していた。葉子は自分|一人《ひとり》がみんなから振り向いて見られるように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮《やぼ》くさい綿入《わたい》れを着ている葉子であった。服装に塵《ちり》ほどでも批点の打ちどころがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。
葉子はとうとう税関|波止場《はとば》の入り口まで来てしまった。その入り口の小さな煉瓦《れんが》造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金ぼたんの背広に、海軍帽をかぶって事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、きのう上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手《はで》造りな姿に目を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子はしかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去る事ができなかった。もしや倉地が昼飯でも食べにあの大きな五体を重々しく動かしながら船のほうから出て来はしないかと心待ちがされたからだ。
葉子はそろそろと海洋通りをグランド・ホテルのほうに歩いてみた。倉地が出て来れば、倉地のほうでも自分を見つけるだろうし、自分のほうでも後ろに目はないながら、出て来たのを感づいてみせるという自信を持ちながら、後ろも振り向かずにだんだん波止場から遠ざかった。海ぞいに立て連ねた石杭《いしぐい》をつなぐ頑丈《がんじょう》な鉄鎖には、西洋人の子供たちが犢《こうし》ほどな洋犬やあま[#「あま」に傍点]に付き添われて事もなげに遊び戯れていた。そして葉子を見ると心安立《こころやすだ》てに無邪気にほほえんで見せたりした。小さなかわいい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子《さだこ》を思い出して、胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合はことさらそうだった。見ていられないほどそれらの子供たちは悲しい姿に葉子の目に映った。葉子はそこから避けるように足を返してまた税関のほうに歩み近づいた。監視課の事務所の前を来たり往《い》ったりする人数は絡繹《らくえき》として絶えなかったが、その中に事務長らしい姿はさらに見えなかった。葉子は絵島丸まで行って見る勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補たちの目にかかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁のほうに引き返した。
二三
その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまぶれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾《しきい》をまたがずに桜の並み木の下などを徘徊《はいかい》して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れにまじってふきげんそうに顔をしかめた倉地は真向《まっこう》に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復したようになって、すぐ跳《おど》り出して来るいたずら心のままに、一本の桜の木を楯《たて》に倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押しならんだ。倉地はさすがに不意をくってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の目を見やりながら、「どこからわいて出たんだ」といわんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、きょう始めて半日の余も顔を見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物さびしく、同時にこんな所で思いもかけず出あったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。そのまっ黒によごれた手をいきなり引っつかんで熱い口びるでかみしめて労《いたわ》ってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添う事すらできない大道《だいどう》であるのをどうしよう。葉子はその切《せつ》ない心を拗《す》ねて見せるよりほかなかった。
「わたしもうあの宿屋には泊まりませんわ。人をばかにしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」
「どうして……」
といいながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。
「これじゃ(といってほこりにまみれた両手をひろげ襟頸《えりくび》を抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」
「だからあなたはお帰りなさいましといってるじゃありませんか」
そう冒頭《まえおき》をして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将《おかみ》の仕打ちから、女中のふしだら[#「ふしだら」に傍点]まで尾鰭《おひれ》をつけて讒訴《いいつ》けて、早く双鶴館《そうかくかん》に移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、
「きょう双鶴館《あそこ》から電話で部屋《へや》の都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか……(葉子はそういいつけられながら今まですっかり[#「すっかり」に傍点]忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)……ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜あとから行くで」
そういわれてみると葉子はまた一人《ひとり》だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人《ふたり》のうちどちらか一人居残らねばならない。
「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも行くまい」
倉地がこういい足した時葉子は危うく、ではきょうの「報正新報」を見たかといおうとするところだったが、はっ[#「はっ」に傍点]と思い返して喉《のど》の所で抑《おさ》えてしまった。
「なんだ」
倉地は見かけのわりに
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