》いのいちばん奥に、中年の男に特有なふけ[#「ふけ」に傍点]のような不快な香《にお》い、他人ののであったなら葉子はひとたまりもなく鼻をおおうような不快な香《にお》いをかぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて来るのだった。その倉地が妻や娘たちに取り巻かれて楽しく一|夕《せき》を過ごしている。そう思うとあり合わせるものを取って打《ぶ》ちこわすか、つかんで引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩《こう》じて来るのだった。
 それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ子供のように幸福だった。それまでの不安や焦躁はどこにか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目ざめたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸にたわいなく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起こった些細《ささい》な事までを、その表情のゆたかな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているもののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人《ふたり》の幸福はどこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のする事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思う事は葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とし遂げていた。茶わんの置き場所まで、着物のしまい所《どころ》まで、倉地は自分の手でしたとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。
 「しかし倉地は妻や娘たちをどうするのだろう」
 こんな事をそんな幸福の最中にも葉子は考えない事もなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥ずかしいような些細《ささい》な事に思われた。葉子は倉地の中にすっかり[#「すっかり」に傍点]とけ込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどいうたくらみはあまりにばからしい取り越し苦労であるのを思わせられた。
 「そうだ生まれてからこのかたわたしが求めていたものはとうとう来《こ》ようとしている。しかしこんな事がこう手近にあろうとはほんとうに思いもよらなかった。わたしみたいなばかはない。この幸福の頂上が今だとだれか教えてくれる人があったら、わたしはその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
 そんな事を葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
 葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将《おかみ》の周旋で、芝《しば》の紅葉館《こうようかん》と道一つ隔てた苔香園《たいこうえん》という薔薇《ばら》専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾《めかけ》になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構《ひとかま》えだった。双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので他所《よそ》に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林《すぎばやし》のために少し日当たりはよくないが、当分の隠れ家《が》としては屈強だといったので、すぐさまそこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小わけして持ち出すのにも、女将《おかみ》は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝《しば》のほうから頼んで来た。そして荷物があらかた[#「あらかた」に傍点]片づいた所で、ある夜おそく、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車《ほろぐるま》に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将《おかみ》がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったんお引き受けした手まえ、気がすまないといい張った。
 葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将《おかみ》も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟《えり》の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
 「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵《ごたいてい》じゃこざいませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしにはわからなくなります。あなたのお心持ちもわた
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