傍点]不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村のいちばん大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、わたしは人一倍あなたをたよりにしてきょうもわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じわたしも信じ、わたしは木村も信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれどもわたしを疑って……そ、まあ待って……疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事ができないでいらっしゃるんですわね……こうなるとわたしは倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただくほかしようがありません。いくらわたし娘の時から周囲《まわり》から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人《ふたり》の妹まで背負って立つ事はできませんからね。……」
古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているのなら……」
そういってまだ言葉を切らないうちに、もうとうに横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に目くばせしたが、倉地は無頓着《むとんじゃく》だった。そして古藤のいるのなどは度外視した傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さで、火鉢《ひばち》の向こう座にどっかとあぐらをかいた。
古藤は倉地を一目見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏《ふ》し目になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にして見せた。葉子はわけはわからないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいい事に、倉地と古藤とを引き合わせる事もせずに自分も黙ったまま静かに鉄びんの湯を土《ど》びんに移して、茶を二人《ふたり》に勧めて自分も悠々《ゆうゆう》と飲んだりしていた。
突然古藤は居ずまいをなおして、
「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれどもなんだか僕はきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
そういって葉子にだけ挨拶《あいさつ》して座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。
「失礼しましてね、ほんとうにきょうは。もう一度でようございますからぜひお会いになってくださいましな。一生のお願いですから、ね」
と耳打ちするようにささやいたが古藤はなんとも答えず、雨の降り出したのに傘も借りずに出て行った。
「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
こうなじるようにいって葉子が座につくと、倉地は飲み終わった茶《ちゃ》わんを猫板《ねこいた》の上にとん[#「とん」に傍点]と音をたてて伏せながら、
「あの男はお前、ばかにしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘り強い所があるぞ。ばかもあのくらいまっすぐにばかだと油断のできないものなのだ。も少し話を続けていてみろ、お前のやり繰りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば知らない事」
こういって不敵に笑いながら押し付けるように葉子を見た。葉子はぎくり[#「ぎくり」に傍点]と釘《くぎ》を打たれたように思った。倉地をしっかり[#「しっかり」に傍点]握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に偶然にいい当てられたように思ったからだ。しかし倉地がほんとうに葉子を安心させるためには、しなければならない大事な事が少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向《おもてむ》き結婚のできるだけの始末をして見せる事だ。手っ取り早くいえばその妻を離縁する事だ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりではない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うような事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも出さずにあとの理由を巧みに倉地に告げようと思った。
「きょうは雨になったで出かけるのが大儀《たいぎ》だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
そういって早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子はしいて起き返らした。
二六
「水戸《みと》とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍《ひか》されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘御《むすめご》
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