傍点]とその姿を見た。
 「まあ義一さんしばらく。お寒いのね。どうぞ火鉢《ひばち》によってくださいましな。ちょっと御免くださいよ」そういって、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広蓋《ひろぶた》から紋付きの羽織《はおり》を引き出して、すわったままどてら[#「どてら」に傍点]と着直した。なまめかしいにおいがその動作につれてひそやかに部屋《へや》の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えてもみないようだった。十年も着慣れたふだん着《ぎ》できのうも会ったばかりの弟のように親しい人に向かうようなとりなし[#「とりなし」に傍点]をした。古藤はとみには口もきけないように思い惑っているらしかった。多少|垢《あか》になった薩摩絣《さつまがすり》の着物を着て、観世撚《かんぜより》の羽織|紐《ひも》にも、きちん[#「きちん」に傍点]とはいた袴《はかま》にも、その人の気質が明らかに書き記《しる》してあるようだった。
 「こんなでたいへん変な所ですけれどもどうか気楽《きらく》になさってくださいまし。それでないとなんだか改まってしまってお話がしにくくっていけませんから」
 心置きない、そして古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気取《けど》らせるような葉子の態度はだんだん古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、そのくせどこかに鋭い光のある目をあげてまじまじと葉子を見始めた。
 「何より先にお礼。ありがとうございました妹たちを。おととい二人でここに来てたいへん喜んでいましたわ」
 「なんにもしやしない、ただ塾《じゅく》に連れて行って上げただけです。お丈夫ですか」
 古藤はありのままをありのままにいった。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子はおもむろに探り知っておかなければならないような事柄《ことがら》に話題を向けて行った。
 「今度こんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事でわたしアメリカに上陸もせず帰って来る事になったんですが、ほんとうをおっしゃってくださいよ、あなたはいったいわたしをどうお思いになって」
 葉子は火鉢《ひばち》の縁《ふち》に両|肘《ひじ》をついて、両手の指先を鼻の先に集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮かび出るすべての意味を読もうとした。
 「えゝ、ほんとうをいいましょう」
 そう決心するもののように古藤はいってからひと膝《ひざ》乗り出した。
 「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事を片づくものだけは片づけて置こうと思ったので、何もかも打ち捨てていましたから、このあいだ横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。もっとも帰って来られるような話はどこかで聞いたようでしたが。そして何かそれには重大なわけがあるに違いないとは思っていましたが。ところがあなたの電話を切るとまもなく木村君の手紙が届いて来たんです。それはたぶん絵島丸より一日か二日早く大北《たいほく》汽船会社の船が着いたはずだから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕《ぼく》は驚いてしまったんです。ずいぶん長い手紙だからあとで御覧になるなら置いて行きましょう。簡単にいうと(そういって古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓《せいとん》するらしくしばらく黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。そしてあなたほど不幸な運命にもてあそばれる人はない。またあなたほど誤解を受ける人はない。だれもあなたの複雑な性格を見窮めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、いろいろなふうにあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起こる事だろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならないあわれむべき女だ。他人がなんといおうと君だけは僕を信じて……もしあなたを信ずることができなければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたのために戦ってくれ……ほんとうはもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれども大体そんな事が書いてあったんです。それで……」
 「それで?」
 葉子は目の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打ち沈んでこう促した。
 「それでですね。僕はその手紙に書いてある事とあなたの電話の『滑稽《こっけい》だった』という言葉とをどう結び付けてみたらいいかわからなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調には……電話だったせいかまるでのんきな冗談口のようにしか聞こえなかった
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