るった。「木村が来た」……何という事なしに葉子はそう思い込んでしまった。爪《つめ》の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、毛という毛が強直《きょうちょく》して逆立《さかだ》つような薄気味わるさが総身《そうみ》に伝わって、思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、口びるばかりがかすかに開いてぶるぶると震えた。そして胸の所に何か突きのけるような具合に手をあげたまま、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と立ち止まってしまった。
その時その黒い人の影のようなものが始めて動き出した。動いてみるとなんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪郭がはっきり[#「はっきり」に傍点]わかって来て、暗さに慣れて来た葉子の目にはそれが岡である事が知れた。
「まあ岡さん」
葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声をどもるような調子で出した。岡はかすかに頬《ほお》を紅《あか》らめたようだった。そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝《ひざ》をついて挨拶《あいさつ》した。まるで一年も牢獄《ろうごく》にいて、人間らしい人間にあわないでいた人のように葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、一人の人が好意をこめて葉子を見舞うためにそこに天降《あまくだ》ったとも思われた。走り寄ってしっかり[#「しっかり」に傍点]とその手を取りたい衝動を抑《おさ》える事ができないほどに葉子の心は感激していた。葉子は目に涙をためながら思うままの振る舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡のそば近くすわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を見やる自分を見いだした。
「ごぶさたしていました」
「よくいらしってくださってね」
どっち[#「どっち」に傍点]からいい出すともなく二人《ふたり》の言葉は親しげにからみ合った。葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が回復して来たのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさがしみじみと胸に逼《せま》った。葉子はわれ知らずすがり付くように、岡の肩にかけていた右手をすべらして、膝《ひざ》の上に乗せている岡の右手の甲の上からしっかり[#「しっかり」に傍点]と捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いて来た。
「長く長くおあいしませんでしたわね。わたしあなたを幽霊じゃないかと思いましてよ。変な顔つきをしたでしょう。貞世は……あなたけさ病院のほうからいらしったの?」
岡はちょっと返事をためらったようだった。
「いゝえ家から来ました。ですからわたし、きょうの御様子は知りませんが、きのうまでのところではだんだんおよろしいようです。目さえさめていらっしゃると『おねえ様おねえ様』とお泣きなさるのがほんとうにおかわいそうです」
葉子はそれだけ聞くともう感情がもろくなっていて胸が張り裂けるようだった。岡は目ざとくもそれを見て取って、悪い事をいったと思ったらしかった。そして少しあわてたように笑い足《た》しながら、
「そうかと思うと、たいへんお元気な事もあります。熱の下がっていらっしゃる時なんかは、愛子さんにおもしろい本を読んでおもらいになって、喜んで聞いておいでです」
と付け足した。葉子は直覚的に岡がその場の間に合わせをいっているのだと知った。それは葉子を安心させるための好意であるとはいえ、岡の言葉は決して信用する事ができない。毎日一度ずつ大学病院まで見舞いに行ってもらうつやの言葉に安心ができないでいて、だれか目に見たとおりを知らせてくれる人はないかとあせっていた矢先、この人ならばと思った岡も、つや以上にいいかげんをいおうとしているのだ。この調子では、とうに貞世が死んでしまっていても、人たちは岡がいって聞かせるような事をいつまでも自分にいうのだろう。自分にはだれ一人《ひとり》として胸を開いて交際しようという人はいなくなってしまったのだ。そう思うとさびしいよりも、苦しいよりも、かっ[#「かっ」に傍点]と取りのぼせるほど貞世の身の上が気づかわれてならなくなった。
「かわいそうに貞世は……さぞやせてしまったでしょうね?」
葉子は口裏をひくようにこう尋ねてみた。
「始終見つけているせいですか、そんなにも見えません」
岡はハンカチで首のまわりをぬぐって、ダブル・カラーの合わせを左の手でくつろげながら少し息気《いき》苦しそうにこう答えた。
「なんにもいただけないんでしょうね」
「ソップと重湯《おもゆ》だけですが両方ともよく食べなさいます」
「ひもじがっておりますか」
「いゝえそんなでも」
もう許せないと葉子は思い入って腹を立てた。腸チブスの予後にあるものが、食欲がない……そんなしらじらし
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