きのお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは胸がつかえますから……」
 倉地の腕の所で葉子のすがり付いた手はぶるぶると震えた。傘からはしたたりがことさら繁《しげ》く落ちて、単衣《ひとえ》をぬけて葉子の肌《はだ》ににじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような不快な悪寒《おかん》を感じた。
 「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。おれの事を少しは思ってみてくれてもよかろうが……疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。おれはこれまでにどんな不貞腐《ふてくさ》れをした。いえるならいってみろ」
 さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。
 「いえないように上手《じょうず》に不貞腐《ふてくさ》れをなさるのじゃ、いおうったっていえやしませんわね。なぜあなたははっきり[#「はっきり」に傍点]葉子にはあきた、もう用がないとおいいになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」
 葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸の所に押しつけた。
 「そしてちゃん[#「ちゃん」に傍点]と奥さんをお呼び戻《もど》しなさいまし。それで何もかも元通りになるんだから。はばかりながら……」
 「愛子は」と口もとまでいいかけて、葉子は恐ろしさに息気《いき》を引いてしまった。倉地の細君《さいくん》の事までいったのはその夜が始めてだった。これほど露骨《ろこつ》な嫉妬《しっと》の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて慎んでいたくせに、葉子はわれにもなく、がみ[#「がみ」に傍点]がみと妹の事までいってのけようとする自分にあきれてしまった。
 葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕でその暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に悪《あく》たれ口をきいた瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く反対に、倉地を自分からどんどん離れさすような事をいってのけているのだ。
 葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたり[#「あたり」に傍点]を見回した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを言い現わす事も信ずる事もできず、要もない猜疑《さいぎ》と不満とにさえぎられて、見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、――そのおそろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。倉地があたりを見回した――それだけの挙動が、機を見計らっていきなり[#「いきなり」に傍点]そこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。葉子は倉地に対する憎悪《ぞうお》の心を切《せつ》ないまでに募らしながら、ますます相手の腕に堅く寄り添った。
 しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]洋傘《こうもり》をそこにかなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は本能的に激しくそれにさからった。そして紙幣の束をぬかるみの中にたたきつけた。そして二人《ふたり》は野獣のように争った。
 「勝手にせい……ばかっ」
 やがてそう激しくいい捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、洋傘《こうもり》を拾い上げるなり、あとをも向かずに南門のほうに向いてずんずんと歩き出した。憤怒と嫉妬《しっと》とに興奮しきった葉子は躍起《やっき》となってそのあとを追おうとしたが、足はしびれたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。
 しめやかな音を立てて雨は降りつづけていた。隔離病室のある限りの窓にはかん[#「かん」に傍点]かんと灯《ひ》がともって、白いカーテンが引いてあった。陰惨な病室にそう赤々と灯のともっているのはかえってあたりを物すさまじくして見せた。
 葉子は紙幣の束を拾い上げるほか、術《すべ》のないのを知って、しおしおとそれを拾い上げた。貞世の入院料はなんといってもそれで仕払うよりしようがなかったから。いいようのないくやし涙がさらにわき返った。

    四三

 その夜おそくまで岡はほんとうに忠実《まめ》やかに貞世の病床に付き添って世話をしてくれた。口少《くちずく》なにしとやか[#「しとやか」に傍点]によく気をつけて、貞世の欲する事をあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一ぺんな看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜のふけるまで氷嚢《ひょうのう》を取りかえたり、熱を計ったりした。
 高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭《ふめいりょう》になって来ていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっ[#「そっ」に傍点]と向きをかえて臥《ね》かしてから、「さあもうお家《うち》ですよ」というと、うれしそうに笑顔《えがお》をもらしたり
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