ね……僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としてはそうより考えられないんです。一時は混雑も来《き》、不和も来、けんかも来《く》るかは知れないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。あなたの事についても僕は前からそういうふうにはっきり[#「はっきり」に傍点]片づけてしまいたいと思っていたんですけれど、姑息《こそく》な心からそれまでに行かずともいい結果が生まれて来はしないかと思ったりしてきょうまでどっち[#「どっち」に傍点nつかずで過ごして来たんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。
 倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村もあきらめるよりほかに道はありません。木村に取っては苦しい事だろうが、僕から考えるとどっち[#「どっち」に傍点]つかずで煩悶《はんもん》しているのよりどれだけいいかわかりません。だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕をばかにして話を真身《しんみ》に受けてはくださらないんです」
 「ばかにされるほうが悪いのよ」
 倉地は庭のほうから顔を返して、「どこまでばかに出来上がった男だろう」というように苦笑《にがわら》いをしながら古藤を見やって、また知らぬ顔に庭のほうを向いてしまった。
 「そりゃそうだ。ばかにされる僕はばかだろう。しかしあなたには……あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけはばかでも僕にはわかる。あなたがばかといわれるのと、僕が自分をばかと思っているそれとは、意味が違いますよ」
 「そのとおり、あなたはばかだと思いながら、どこか心のすみで『何ばかなものか』と思いよるし、わたしはあなたを嘘本《うそほん》なしにばかというだけの相違があるよ」
 「あなたは気の毒な人です」
 古藤の目には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。古藤の心の中のいちばん奥深い所が汚《けが》されないままで、ふと目からのぞき出したかと思われるほど、その涙をためた目は一種の力と清さとを持っていた。さすがの倉地もその一言《ひとこと》には言葉を返す事なく、不思議そうに古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこにはこれまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしのきかない強い力を持った一人《ひとり》の純潔な青年がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]現われ出たように見えた。何をいうか、またいつものようなありきたりの道徳論を振り回すと思いながら、一種の軽侮をもって黙って聞いていた葉子は、この一言で、いわば古藤を壁ぎわに思い存分押し付けていた倉地が手もなくはじき返されたのを見た。言葉の上や仕打ちの上やでいかに高圧的に出てみても、どうする事もできないような真実さが古藤からあふれ出ていた。それに歯向かうには真実で歯向かうほかはない。倉地はそれを持ち合わしているかどうか葉子には想像がつかなかった。その場合倉地はしばらく古藤の顔を不思議そうに見やった後、平気な顔をして膳《ぜん》から杯を取り上げて、飲み残して冷えた酒をてれかくし[#「てれかくし」に傍点]のようにあおりつけた。葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが恐ろしくってならなくなった。古藤の目の前でひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると今まで築いて来た生活がくずれてしまいそうな危惧《きぐ》をさえ感じた。で、そのまま黙って倉地のまねをするようだが、平気を装いつつ煙管《きせる》を取り上げた。その場の仕打ちとしては拙《つたな》いやりかたであるのを歯がゆくは思いながら。
 古藤はしばらく言葉を途切らしていたが、また改まって葉子のほうに話しかけた。
 「そう改まらないでください。その代わり思っただけの事をいいかげんにしておかずに話し合わせてみてください。いいですか。あなたと倉地さんとのこれまでの生活は、僕《ぼく》みたいな無経験なものにも、疑問として片づけておく事のできないような事実を感じさせるんです。それに対するあなたの弁解は詭弁《きべん》とより僕には響かなくなりました。僕の鈍い直覚ですらがそう考えるのです。だからこの際あなたと倉地さんとの関係を明らかにして、あなたから木村に偽りのない告白をしていただきたいんです。木村が一人《ひとり》で生活に苦しみながらたとえようのない疑惑の中にもがいているのを少しでも想像してみたら……今のあなたにはそれを要求するのは無理かもしれないけれども……。第一こんな不安定な状態からあなたは愛子さんや貞世さんを救う義務があると思いますよ僕は。あなただけに限られずに、四方八方の人の心に響くというのは恐ろしい事だとはほんとうにあなたには思えませんかねえ。僕にはそばで見ているだけでも恐ろしいがなあ。人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ。いくら借
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