一目《ひとめ》御覧になったらすぐおわかりになります。わたしは今まで意地《いじ》からも定子はわたし一人《ひとり》の子でわたし一人のものとするつもりでいました。けれどもわたしが世にないものとなった今は、あなたはもうわたしの罪を許してくださるかとも思います。せめては定子を受け入れてくださいましょう。
葉子の死んだ後
あわれなる定子のママより
定子のおとう様へ」
[#ここで字下げ終わり]
と書いた。涙は巻紙の上にとめどなく落ちて字をにじました。東京に帰ったらためて置いた預金の全部を引き出してそれを為替《かわせ》にして同封するために封を閉じなかった。
最後の犠牲……今までとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]捨て兼ねていた最愛のものを最後の犠牲にしてみたら、たぶんは倉地の心がもう一度自分に戻《もど》って来るかもしれない。葉子は荒神に最愛のものを生牲《いけにえ》として願いをきいてもらおうとする太古《たいこ》の人のような必死な心になっていた。それは胸を張り裂くような犠牲だった。葉子は自分の目からも英雄的に見えるこの決心に感激してまた新しく泣きくずれた。
「どうか、どうか、……どうーか」
葉子はだれにともなく手を合わして、一心に念じておいて、雄々《おお》しく涙を押しぬぐうと、そっと座を立って、倉地の寝ているほうへと忍びよった。廊下の明りは大半消されているので、ガラス窓からおぼろにさし込む月の光がたよりになった。廊下の半分がた燐《りん》の燃えたようなその光の中を、やせ細っていっそう背たけの伸びて見える葉子は、影が歩むように音もなく静かに歩みながら、そっと[#「そっと」に傍点]倉地の部屋の襖《ふすま》を開いて中にはいった。薄暗くともった有明《ありあ》けの下に倉地は何事も知らぬげに快く眠っていた。葉子はそっ[#「そっ」に傍点]とその枕《まくら》もとに座を占めた。そして倉地の寝顔を見守った。
葉子の目にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に涙がわくようにあふれ出て、厚ぼったいような感じになった口びるはわれにもなくわなわなと震えて来た。葉子はそうしたままで黙ってなおも倉地を見続けていた。葉子の目にたまった涙のために倉地の姿は見る見るにじんだように輪郭がぼやけてしまった。葉子は今さら人が違ったように心が弱って、受け身にばかりならずにはいられなくなった自分が悲しかった。なんという情けないかわいそうな事だろう。そう葉子はしみじみと思った。
だんだん葉子の涙はすすり泣きにかわって行った。倉地が眠りの中でそれを感じたらしく、うるさそうにうめき声を小さく立てて寝返りを打った。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気《いき》をつめた。
しかしすぐすすり泣きはまた帰って来た。葉子は何事も忘れ果てて、倉地の床のそばにきちん[#「きちん」に傍点]とすわったままいつまでもいつまでも泣き続けていた。
三八
「何をそう怯《お》ず怯《お》ずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」
倉地は倉地にしては特にやさしい声でこういった、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子は飛んでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。
「ついシャツを仕替《しか》える時それだけ忘れてしまって……」
「いいわけなんぞはいいわい。早く頼む」
「はい」
葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]にそういって寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタン孔《あな》に入れようとしたが、糊《のり》が硬《こわ》いのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。
「すみませんがちょっと脱いでくださいましな」
「めんどうだな、このままでできようが」
葉子はもう一度試みた。しかし思うようには行かなかった。倉地はもう明らかにいらいらし出していた。
「だめか」
「まあちょっと」
「出せ、貸せおれに。なんでもない事だに」
そういってくるり[#「くるり」に傍点]と振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれをはめようとかかった。しかしなかなかうまく行かなかった。見る見る倉地の手ははげしく震え出した。
「おい、手伝ってくれてもよかろうが」
葉子があわてて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。
「ばか! 邪魔をしろといいやせんぞ」
葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。
「御免くださいね、わたしお邪魔なんぞ……」
「邪魔よ。これ
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