てすぐその目を返して、遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目にながめ入った。
 「わたしあなたとゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話がしてみたいと思いますが……」
 こう葉子はしんみり[#「しんみり」に傍点]ぬすむようにいってみた。木部は少しもそれに心を動かされないように見えた。
 「そう……それもおもしろいかな。……わたしはこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、おかしなもんですね、ハヽヽヽ(葉子がその言葉につけ入って何かいおうとするのを木部は悠々《ゆうゆう》とおっかぶせて)あれが、あすこに見えるのが大島《おおしま》です。ぽつん[#「ぽつん」に傍点]と一つ雲か何かのように見えるでしょう空に浮いて……大島って伊豆《いず》の先の離れ島です、あれがわたしの釣《つ》りをする所から正面に見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。どうかすると噴煙がぽーっ[#「ぽーっ」に傍点]と見える事もありますよ」
 また言葉がぽつん[#「ぽつん」に傍点]と切れて沈黙が続いた。下駄《げた》の音のほかに波の音もだんだんと近く聞こえ出した。葉子はただただ胸が切《せつ》なくなるのを覚えた。もう一度どうしてもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]木部にあいたい気になっていた。
 「木部さん……あなたさぞわたしを恨んでいらっしゃいましょうね。……けれどもわたしあなたにどうしても申し上げておきたい事がありますの。なんとかして一度わたしに会ってくださいません? そのうちに。わたしの番地は……」
 「お会いしましょう『そのうちに』……そのうちにはいい言葉ですね……そのうちに……。話があるからと女にいわれた時には、話を期待しないで抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハヽヽヽヽ」
 「それはあんまりなおっしゃりかたですわ」
 葉子はきわめて冗談のようにまたきわめてまじめのようにこういってみた。
 「あんまりかあんまりでないか……とにかく名言には相違ありますまい、ハヽヽヽヽ」
 木部はまたうつろに笑ったが、また痛い所にでも触れたように突然笑いやんだ。
 倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっち[#「こっち」に傍点]を振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。
 「どれお二人《ふたり》に橋渡しをして上げましょうかな」
 そういって木部は川べの葦《あし》を分けてしばらく姿を隠していたが、やがて小さな田舟《たぶね》に乗って竿《さお》をさして現われて来た。その時葉子は木部が釣り道具を持っていないのに気がついた。
 「あなた釣り竿《ざお》は」
 「釣り竿ですか……釣り竿は水の上に浮いてるでしょう。いまにここまで流れて来るか……来ないか……」
 そう応《こた》えて案外|上手《じょうず》に舟を漕《こ》いだ。倉地は行き過ぎただけを忙《いそ》いで取って返して来た。そして三人はあぶなかしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前も構わずわきの下に手を入れて葉子をかかえた。木部は冷然として竿を取った。三突きほどでたわいなく舟は向こう岸に着いた。倉地がいちはやく岸に飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に手を貸していたので、葉子はすぐにそれをつかんだ。思いきり力をこめたためか、木部の手が舟を漕《こ》いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま小刻みにはげしく震えた。
 「やっ、どうもありがとう」
 倉地は葉子の上陸を助けてくれた木部にこう礼をいった。
 木部は舟からは上がらなかった。そして鍔広《つばびろ》の帽子を取って、
 「それじゃこれでお別れします」
 といった。
 「暗くなりましたから、お二人とも足もとに気をおつけなさい。さようなら」
 と付け加えた。
 三人は相当の挨拶《あいさつ》を取りかわして別れた。一|町《ちょう》ほど来てから急に行く手が明るくなったので、見ると光明寺裏の山の端《は》に、夕月が濃い雲の切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返って見た。紫色に暮れた砂の上に木部が舟を葦間《あしま》に漕《こ》ぎ返して行く姿が影絵のように黒くながめられた。葉子は白|琥珀《こはく》のパラソルをぱっ[#「ぱっ」に傍点]と開いて、倉地にはいたずら[#「いたずら」に傍点]に見えるように振り動かした。
 三四|町《ちょう》来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿はなかった。葉子はパラソルを畳もうとして思わず涙ぐんでしまっていた。
 「あれはいったいだれだ」
 「だれだっていいじゃありませんか」
 暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく疳走《かんばし》っていた。
 「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」
 「えゝ、そのとおり……あんな乞食《こじき》みたいな見っとも
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