い忙しいっていっときながらお酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。こら見てちょうだい」
そういいながら葉子は立ち上がって、両手を左右に広く開いて、袂《たもと》が延びたまま両腕からすらり[#「すらり」に傍点]とたれるようにして、やや剣《けん》を持った笑いを笑いながら倉地のほうに近寄って行った。倉地もさすがに、今さらその美しさに見惚《みと》れるように葉子を見やった。天才が持つと称せられるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒くなって、目の縁《ふち》に憂いの雲をかけたような薄紫の暈《かさ》、霞《かす》んで見えるだけにそっ[#「そっ」に傍点]と刷《は》いた白粉《おしろい》、きわ立って赤くいろどられた口びる、黒い焔《ほのお》を上げて燃えるようなひとみ、後ろにさばいて束ねられた黒漆《こくしつ》の髪、大きなスペイン風《ふう》の玳瑁《たいまい》の飾り櫛《ぐし》、くっきりと白く細い喉《のど》を攻めるようにきりっ[#「きりっ」に傍点]と重ね合わされた藤色《ふじいろ》の襟《えり》、胸のくぼみにちょっとのぞかせた、燃えるような緋《ひ》の帯上げのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって底光りのする紫紺色の袷《あわせ》、その下につつましく潜んで消えるほど薄い紫色の足袋《たび》(こういう色足袋は葉子がくふうし出した新しい試みの一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の中にぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]と、葉子という世にもまれなほど悽艶《せいえん》な一つの存在を浮き出さしていた。その存在の中から黒い焔《ほのお》を上げて燃えるような二つのひとみが生きて動いて倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やっていた。
倉地が物をいうか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとするその前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足どりで、倉地の目の先に立ってその胸の所に、両手をかけていた。
「もうわたしに愛想が尽きたら尽きたとはっきり[#「はっきり」に傍点]いってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。わたしは自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあいってください、……今……この場で、はっきり[#「はっきり」に傍点]……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。わたしは喜んで……わたしはどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでもわたしほんとうが知りたいんですから。さ、いってください。わたしどんなきつい言葉でも覚悟していますから。悪《わる》びれなんかしはしませんから……あなたはほんとうにひどい……」
葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやか[#「しめやか」に傍点]にしめやか[#「しめやか」に傍点]に泣いていたが、急に激しいヒステリー風《ふう》なすすり泣きに変わって、きたないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがば[#「がば」に傍点]と突っ伏して激しく声を立てて泣き出した。
このとっさの激しい威脅に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛びのいた。そこには獣《けもの》に見るような野性のままの取り乱しかたが美しい衣装にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪《つめ》もとがって見えた。からだは激しい痙攣《けいれん》に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪《けんお》とがもつれ合いいがみ合ってのた[#「のた」に傍点]打ち回るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に食い止めるためにふとんでも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募ってのがれようとばかりあせった。
「何を思い違いをしとる、これ」
倉地は喉笛《のどぶえ》をあけっ放《ぱな》した低い声で葉子の耳もとにこういってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
「えゝ、殺すなら殺してください……くださいとも」
という狂気じみた声をしっ[#「しっ」に傍点]と制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子はわれながら夢中であてがった倉地の手を骨もくだけよとかんだ。
「痛い……何しやがる」
倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]一方の手で葉子の細首を取って自分の膝《ひざ》の上に乗せて締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんともいえず美しく心
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