です」
 紹介された倉地は心置きない態度で古藤のそばにすわりながら、
 「わたしはたしか双鶴館《そうかくかん》でちょっとお目にかかったように思うが御挨拶《ごあいさつ》もせず失敬しました。こちらには始終お世話になっとります。以後よろしく」
 といった。古藤は正面から倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらちょっと頭を下げたきり物もいわなかった。倉地は軽々しく出した自分の今の言葉を不快に思ったらしく、苦《にが》りきって顔を正面に直したが、しいて努力するように笑顔《えがお》を作ってもう一度古藤を顧みた。
 「あの時からすると見違えるように変わられましたな。わたしも日清《にっしん》戦争の時は半分軍人のような生活をしたが、なかなかおもしろかったですよ。しかし苦しい事もたまにはおありだろうな」
 古藤は食卓を見やったまま、
 「えゝ」
 とだけ答えた。倉地の我慢はそれまでだった。一座はその気分を感じてなんとなく白《しら》け渡った。葉子の手慣れたtactでもそれはなかなか一掃されなかった。岡はその気まずさを強烈な電気のように感じているらしかった。ひとり貞世だけはしゃぎ返った。
 「このサラダは愛ねえさんがお醋《す》とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」
 愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、
 「貞《さあ》ちゃんはひどい」
 といった。貞世は平気だった。
 「その代わりわたしがまたお醋《す》をあとから入れたからすっぱすぎる所があるかもしれなくってよ。も少しついでにお葉《は》も入れればよかってねえ、愛ねえさん」
 みんなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐしずまってしまった。
 やがて古藤が突然|箸《はし》をおいた。
 「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。すみませんでした。僕はこれで失礼します」
 葉子はあわてて、
 「まあそんな事はちっとも[#「ちっとも」に傍点]ありません事よ。古藤さんそんな事をおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。みんなで途中までお送りしますから」
 ととめたが古藤はどうしてもきかなかった。人々は食事なかばで立ち上がらねばならなかった。古藤は靴《くつ》をはいてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服のしわを延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く目をやった。始めからほとんど物をいわなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な目を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっ[#「じっ」に傍点]と見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見のがさなかった。
 「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げる事がたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」
 そういって葉子も親しみを込めたひとみを送った。古藤はしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]張《ば》った軍隊式の立礼をして、さくさくと砂利《じゃり》の上に靴《くつ》の音を立てながら、夕闇《ゆうやみ》の催した杉森《すぎもり》の下道のほうへと消えて行った。
 見送りに立たなかった倉地が座敷のほうでひとり言のようにだれに向かってともなく「ばか!」というのが聞こえた。

    三五

 葉子と倉地とは竹柴館《たけしばかん》以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴する事もあった。外国人はおもに米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、だれでも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑《こわく》しないでは置かないはなやかな応接ぶりとで、彼らをとりこにする事に成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢《みつ》がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は充分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。
 しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。目の光にさえもとのように大海にのみ見る寛濶《かんかつ》な無頓着《むとんじゃく》なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもない事にきびしく腹を立てた。正井などは木《こ》っ葉《ぱ》みじんにしかり飛ばされたりした。そういう時の倉地はあらしのような狂暴な威力を示した。
 葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心がすさめばすさむほど葉
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