石でも釣《つ》り下げてあるような、重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷え出すのも知った。血管の中には血の代わりに文火《とろび》でも流れているのではないかと思うくらい寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝るのは幼少の時からの痼疾《こしつ》だったがそれが近ごろになってことさら激しくなった。葉子はちょい[#「ちょい」に傍点]ちょい按摩《あんま》を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを気づいて、葉子は婦人病であるに相違ないとは思った。しかしそうでもないと思うような事が葉子の胸の中にはあった。もしや懐妊では……葉子は喜びに胸をおどらせてそう思ってもみた。牝豚《めぶた》のように幾人も子を生むのはとても耐えられない。しかし一人《ひとり》はどうあっても生みたいものだと葉子は祈るように願っていたのだ。定子の事から考えると自分には案外子運があるのかもしれないとも思った。しかし前の懐妊の経験と今度の徴候とはいろいろな点で全く違ったものだった。
 一月の末になって木村からははたして金を送って来た。葉子は倉地が潤沢につけ届けする金よりもこの金を使う事にむしろ心安さを覚えた。葉子はすぐ思いきった散財をしてみたい誘惑に駆り立てられた。
 ある日当たりのいい日に倉地とさし向かいで酒を飲んでいると苔香園《たいこうえん》のほうから藪《やぶ》うぐいすのなく声が聞こえた。葉子は軽く酒ほてりのした顔をあげて倉地を見やりながら、耳ではうぐいすのなき続けるのを注意した。
 「春が来ますわ」
 「早いもんだな」
 「どこかへ行きましょうか」
 「まだ寒いよ」
 「そうねえ……組合のほうは」
 「うむあれが片づいたら出かけようわい。いいかげんくさ[#「くさ」に傍点]くさしおった」
 そういって倉地はさもめんどうそうに杯の酒を一煽《ひとあお》りにあおりつけた。
 葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感づいた。それにしてもあの毎月の多額な金はどこから来るのだろう。そうちらっ[#「ちらっ」に傍点]と思いながら素早《すばや》く話を他にそらした。

    三二

 それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっ[#「からっ」に傍点]と晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にさす間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森《すぎもり》にあたって物すごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹《あんたん》と見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置きごたつを持ち出して、倉地の着がえをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早びけだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢《ひばち》のそばにうずくまっていた。葉子は食器を台所のほうに運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物をいった。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地がいいかけた。
 「おいお葉(倉地はいつのまにか葉子をこう呼ぶようになっていた)おれはきょうは二人《ふたり》に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」
 葉子は布巾《ふきん》を持って台所のほうからいそいそと茶の間に帰って来た。
 「なんだってまたきょう……」
 そういってつき膝《ひざ》をしながらちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台をぬぐった。
 「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」
 「そうねえ」
 葉子はそのままそこにすわり込んで布巾《ふきん》をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台にあてがったまま考えた。ほんとうはこれはとうに葉子のほうからいい出すべき事だったのだ。妹たちのいないすきか、寝てからの暇をうかがって、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびき[#「あいびき」に傍点]のような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面をうかがわせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないで置いたのだったが、倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人《ふたり》の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。葉子は決心した。
 「じゃきょうにしましょう。……それにしても着物だけは着かえていてくださいましな」
 「よし来た」
 と倉地はにこ[#「にこ」に傍点]にこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織《はお》っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑丈《がんじょう》な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、
 「それは二人ともいい子よ。かわいがってやってくださいましよ
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