す。
 きょう拝見したお手紙もほんとうは読まずに裂いてしまうのでございましたけれども……わたしの居所をどなたにもお知らせしないわけなどは申し上げるまでもございますまい。
 この手紙はあなたに差し上げる最後のものかと思われます。お大事にお過ごし遊ばしませ。陰ながら御成功を祈り上げます。
 ただいま除夜の鐘が鳴ります。
    大晦日《おおみそか》の夜
   木 村 様                            葉より」
[#ここで字下げ終わり]
 葉子はそれを日本|風《ふう》の状袋《じょうぶくろ》に収めて、毛筆で器用に表記を書いた。書き終わると急にいらいらし出して、いきなり[#「いきなり」に傍点]両手に握ってひと思いに引き裂こうとしたが、思い返して捨てるようにそれを畳の上になげ出すと、われにもなく冷ややかな微笑が口じりをかすかに引きつらした。
 葉子の胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせるほど高く、すぐ最寄《もよ》りにある増上寺《ぞうじょうじ》の除夜の鐘が鳴り出した。遠くからどこの寺のともしれない鐘の声がそれに応ずるように聞こえて来た。その音に引き入れられて耳を澄ますと夜の沈黙《しじま》の中にも声はあった。十二時を打つぼんぼん時計、「かるた」を読み上げるらしいはしゃい[#「はしゃい」に傍点]だ声、何に驚いてか夜なきをする鶏……葉子はそんな響きを探り出すと、人の生きているというのが恐ろしいほど不思議に思われ出した。
 急に寒さを覚えて葉子は寝じたくに立ち上がった。

    三一

 寒い明治三十五年の正月が来て、愛子たちの冬期休暇も終わりに近づいた。葉子は妹たちを再び田島|塾《じゅく》のほうに帰してやる気にはなれなかった。田島という人に対して反感をいだいたばかりではない。妹たちを再び預かってもらう事になれば葉子は当然|挨拶《あいさつ》に行って来《く》べき義務を感じたけれども、どういうものかそれがはばかられてできなかった。横浜の支店長の永井《ながい》とか、この田島とか、葉子には自分ながらわけのわからない苦手《にがて》の人があった。その人たちが格別偉い人だとも、恐ろしい人だとも思うのではなかったけれども、どういうものかその前に出る事に気が引けた。葉子はまた妹たちが言わず語らずのうちに生徒たちから受けねばならぬ迫害を思うと不憫《ふびん》でもあった。で、毎日通学するには遠すぎるという理由のもとにそこをやめて、飯倉《いいくら》にある幽蘭《ゆうらん》女学校というのに通わせる事にした。
 二人《ふたり》が学校に通い出すようになると、倉地は朝から葉子の所で退校時間まで過ごすようになった。倉地の腹心の仲間たちもちょいちょい出入りした。ことに正井という男は倉地の影のように倉地のいる所には必ずいた。例の水先案内業者組合の設立について正井がいちばん働いているらしかった。正井という男は、一見放漫なように見えていて、剃刀《かみそり》のように目はしのきく人だった。その人が玄関からはいったら、そのあとに行って見ると履《は》き物《もの》は一つ残らずそろえてあって、傘《かさ》は傘で一隅《いちぐう》にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と集めてあった。葉子も及ばない素早《すばや》さで花びんの花のしおれかけたのや、茶や菓子の足《た》しなくなったのを見て取って、翌日は忘れずにそれを買いととのえて来た。無口のくせにどこかに愛矯《あいきょう》があるかと思うと、ばか笑いをしている最中に不思議に陰険な目つきをちらつかせたりした。葉子はその人を観察すればするほどその正体がわからないように思った。それは葉子をもどかしくさせるほどだった。時々葉子は倉地がこの男と組合設立の相談以外の秘密らしい話合いをしているのに感づいたが、それはどうしても明確に知る事ができなかった。倉地に聞いてみても、倉地は例ののんきな態度で事もなげに話題をそらしてしまった。
 葉子はしかしなんといっても自分が望みうる幸福の絶頂に近い所にいた。倉地を喜ばせる事が自分を喜ばせる事であり、自分を喜ばせる事が倉地を喜ばせる事である、そうした作為のない調和は葉子の心をしとやかに快活にした。何にでも自分がしようとさえ思えば適応しうる葉子に取っては、抜け目のない世話女房になるくらいの事はなんでもなかった。妹たちもこの姉を無二のものとして、姉のしてくれる事は一も二もなく正しいものと思うらしかった。始終葉子から継子《ままこ》あつかいにされている愛子さえ、葉子の前にはただ従順なしとやかな少女だった。愛子としても少なくとも一つはどうしてもその姉に感謝しなければならない事があった。それは年齢のお陰もある。愛子はことしで十六になっていた。しかし葉子がいなかったら、愛子はこれほど美しくはなれなかったに違いない。二三週間のうちに愛子は山か
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