た。とうとう倉地は自分のために……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探り出した。
 はたしてそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受け取り方《かた》に関する注意が事々しい行書《ぎょうしょ》で書いてあるのだった。葉子はなんといっていいかわからなかった。こんな恋の戯れの中からかほどな打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子にいって聞かせた言葉はほんとうの事だったのか。これほどまでに倉地は真身《しんみ》になってくれていたのか。葉子は辞令を膝《ひざ》の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。目がしらの所が非常に熱い感じを得たと思った、鼻の奥が暖かくふさがって来た。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
 「ほんとうに私がわるうございました……許してくださいまし……(そういううちに葉子はもう泣き始めていた)……私はもう日陰の妾《めかけ》としてでも囲い者としてでもそれで充分に満足します。えゝ、それでほんとうにようござんす。わたしはうれしい……」
 倉地は今さら何をいうというような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
 「妾《めかけ》も囲い者もあるかな、おれには女はお前|一人《ひとり》よりないんだからな。離縁状は横浜の土を踏むと一緒に嬶《かかあ》に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
 といってあぐらの膝《ひざ》で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気《いき》をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。
 「葉子、おれが木村以上にお前に深惚《ふかぼ》れしているといつか船の中でいって聞かせた事があったな。おれはこれでいざとなると心にもない事はいわないつもりだよ。双鶴館《そうかくかん》にいる間もおれは幾日も浜には行きはしなんだのだ。たいていは家内《かない》の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいていけりがついたから、おれは少しばかり手回りの荷物だけ持って一足《ひとあし》先にここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱり[#「すっぱり」に傍点]したわ。これには双鶴館のお内儀《かみ》も驚きくさるだろうて……」
 会社の辞令ですっかり[#「すっかり」に傍点]倉地の心持ちをどん底《ぞこ》から感じ得た葉子は、この上倉地の妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙にぬれひたりながらそれをふき取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事がすでに解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきり[#「すっきり」に傍点]すべきはずだった。けれどもそうは行かなかった。葉子はいつのまにか去られた倉地の妻その人のようなさびしい悲しい自分になっているのを発見した。
 倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のようにまっ黒にふっくり[#「ふっくり」に傍点]と乱れた葉子の髪の毛をやさしくなで回した。そしていつもに似ずしんみり[#「しんみり」に傍点]した調子になって、
 「とうとうおれも埋《うも》れ木《ぎ》になってしまった。これから地面の下で湿気を食いながら生きて行くよりほかにはない。――おれは負け惜しみをいうはきらいだ。こうしている今でもおれは家内や娘たちの事を思うと不憫《ふびん》に思うさ。それがない事ならおれは人間じゃないからな。……だがおれはこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながらおれはばかになり腐ったらしいて」
 そういって葉子の首を固くかきいだいた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地《ごこち》にのみ込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。わたしだって定子をみごとに捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度もわびるように繰り返していた。それがまた自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢《じゅばん》とを通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の目も珍しく曇っていた。そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に揺すぶって、赤子《あかご》でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森《すぎもり》がごう[#「ごう」に傍点]ごうと鳴りを立てて、枯れ葉が明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立ててかわいた紙にぶつかった。それは埃立《ほこりだ》った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋《へや》の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。ただ自分の心が幸福にさびしさに燃え
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