、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。
「そんな事どうでもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
といってみると「えゝ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は古藤のほうから、
「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
とはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえて来た。葉子はすかさず、
「はあ会いましてよ。相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそうでしたの。義一さん……聞こえますか。明後日《あさって》私東京に帰りますわ。もう叔母《おば》の所には行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透矢町《すきやちょう》のね、双鶴館《そうかくかん》……つがいの鶴《つる》……そう、おわかりになって?……双鶴館に行きますから……あなた来てくだされる?……でもぜひ聞いていただかなければならない事があるんですから……よくって?……そうぜひどうぞ。明々後日《しあさって》の朝? ありがとうきっと[#「きっと」に傍点]お待ち申していますからぜひですのよ」
葉子がそういっている間、古藤の言葉はしまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子のいう事を聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。
朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二|分《ぶん》に覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出るとけさ始めて顔を合わした内儀《おかみ》に帳場|格子《ごうし》の中から挨拶《あいさつ》されて、部屋《へや》にも伺いに来ないでなれなれしく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、匆々《そうそう》三階に引き上げた。
それからはもうほんとうになんにもする事がなかった。ただ倉地の帰って来るのばかりが
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