ら物のない世界に落ち込んで行った。
ほんとうに葉子が目をさました時には、まっさおに晴天の後の夕暮れが催しているころだった。葉子は部屋《へや》のすみの三畳に蚊帳《かや》の中に横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。
愛子のいう所によると、葉子は貞世にソップを飲まそうとしていろいろにいったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は飯でなければどうしても食べないといってきかなかったのを、葉子は涙を流さんばかりになって執念《しゅうね》くソップを飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿《ざら》を臥《ね》ていながらひっくり[#「ひっくり」に傍点]返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって貞世の胸《むな》もとをつかむなり寝台から引きずりおろしてこづき回した。幸いにい合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに食ってかかって、そのうちに激しい癪《しゃく》を起こしてしまったのだとの事だった。
葉子の心はむなしく痛んだ。どこにとて取りつくものもないようなむなしさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり[#「すっかり」に傍点]元通りにのぼってしまって、ひどくおびえるらしい囈言《うわごと》を絶え間なしに口走った。節々《ふしぶし》はひどく痛みを覚えながら、発作《ほっさ》の過ぎ去った葉子は、ふだんどおりになって起き上がる事もできるのだった。しかし葉子は愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま寝続けた。
貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。そう思うと葉子はやるかたなく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに生き残ったとしても、貞世はきっと永劫《えいごう》自分を命《いのち》の敵《かたき》と怨《うら》むに違いない。
「死ぬに限る」
葉子は窓を通して青から藍《あい》に変わって行きつつある初夏の夜の景色をながめた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心にしみ通るようだった。貞世の枕《まくら》もとには若い岡と愛子とがむつまじげに居たり立ったりして貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。親切な岡、柔順な愛子……二人《ふたり》が愛し合うのは当然でいい事らしい。
「ど
前へ
次へ
全233ページ中201ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング