ね……僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としてはそうより考えられないんです。一時は混雑も来《き》、不和も来、けんかも来《く》るかは知れないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。あなたの事についても僕は前からそういうふうにはっきり[#「はっきり」に傍点]片づけてしまいたいと思っていたんですけれど、姑息《こそく》な心からそれまでに行かずともいい結果が生まれて来はしないかと思ったりしてきょうまでどっち[#「どっち」に傍点nつかずで過ごして来たんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。
 倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村もあきらめるよりほかに道はありません。木村に取っては苦しい事だろうが、僕から考えるとどっち[#「どっち」に傍点]つかずで煩悶《はんもん》しているのよりどれだけいいかわかりません。だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕をばかにして話を真身《しんみ》に受けてはくださらないんです」
 「ばかにされるほうが悪いのよ」
 倉地は庭のほうから顔を返して、「どこまでばかに出来上がった男だろう」というように苦笑《にがわら》いをしながら古藤を見やって、また知らぬ顔に庭のほうを向いてしまった。
 「そりゃそうだ。ばかにされる僕はばかだろう。しかしあなたには……あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけはばかでも僕にはわかる。あなたがばかといわれるのと、僕が自分をばかと思っているそれとは、意味が違いますよ」
 「そのとおり、あなたはばかだと思いながら、どこか心のすみで『何ばかなものか』と思いよるし、わたしはあなたを嘘本《うそほん》なしにばかというだけの相違があるよ」
 「あなたは気の毒な人です」
 古藤の目には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。古藤の心の中のいちばん奥深い所が汚《けが》されないままで、ふと目からのぞき出したかと思われるほど、その涙をためた目は一種の力と清さとを持っていた。さすがの倉地もその一言《ひとこと》には言葉を返す事なく、不思議そうに古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこにはこれまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしのきかない強い力を持った一人《ひとり》の純潔な青年がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]現われ
前へ 次へ
全233ページ中169ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング