記憶は哀《かな》しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬《しっと》とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちく[#「ちく」に傍点]ちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。
そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両|肘《ひじ》をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒漆《こくしつ》の髪《かみ》の毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの齢《とし》の時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっ[#「ふっ」に傍点]と悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に臆病《おくびょう》がる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい田舎《いなか》のほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらん[#「がらん」に傍点]と客の空《す》いた大きな旅籠屋《はたごや》に宿《とま》った時、枕《まくら》を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん端《はし》に寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、得体《えたい》のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人《ふたり》の中に割りこましてもら
前へ
次へ
全233ページ中163ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング