らのがれる事のできないような奇怪の麻酔《ますい》の力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、無尽蔵に強烈で征服的な生《き》のままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟《さしはさtんでいるのだ。どんな可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を焼くような未練と嫉妬《しっと》のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪《た》え忍ぼうとした。
 そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに来るようになった。
 「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」
 と倉地が葉子にいい聞かせてから一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ[#「しゃれ」に傍点]者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮をにおわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンの膝《ひざ》には焼けこげの小さな孔《あな》が明いたりしていた。葉子が上げる上げないもいわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷《ふろしき》から取り出した。
 「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
 そういって葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとして平気なものだった。ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]内衣嚢《うちがくし》から巻煙草《まきたばこ》入れを取り出して、金口《きんぐち》を一本つまみ取ると、炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかに香《かお》りのいい煙を座敷に漂わした。
 「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇《ばら》も咲き出すでしょう……遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に太平洋を往《い》ったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。わたしたちの仕事も
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