安かった。葉子の五体からはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に力が抜けて行って、震えを立ててかみ合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地はかまれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の頬《ほお》げたをひし[#「ひし」に傍点]ひしと五六度続けさまに平手《ひらて》で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと神経の末梢《まっしょう》に答えて来る感覚のためにからだじゅうに一種の陶酔を感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」といってやりたかったけれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬をかばうように倉地の手の下るのをささえようとしていた。倉地は両|肘《ひじ》まで使って、ばた[#「ばた」に傍点]ばたと裾《すそ》を蹴《け》乱してあばれる両足のほかには葉子を身動きもできないようにしてしまった。酒で心臓の興奮しやすくなった倉地の呼吸は霰《あられ》のようにせわしく葉子の顔にかかった。
 「ばかが……静かに物をいえばわかる事だに……おれがお前を見捨てるか見捨てないか……静かに考えてもみろ、ばかが……恥さらしなまねをしやがって……顔を洗って出直して来い」
 そういって倉地は捨てるように葉子を寝床の上にどん[#「どん」に傍点]とほうり投げた。
 葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そしてそのまま昏々《こんこん》として眠るように仰向いたまま目を閉じていた。倉地は肩で激しく息気《いき》をつきながらいたましく取り乱した葉子の姿をまんじり[#「まんじり」に傍点]とながめていた。
 一時間ほどの後には葉子はしかしたった今ひき起こされた乱脈騒ぎをけろり[#「けろり」に傍点]と忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして二人《ふたり》は楽しげに下宿から新橋《しんばし》駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の色のはげたモロッコ皮のディバン[#底本では「デイバン」]に腰かけて、倉地が切符《きっぷ》を買って来るのを待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四五人の人たちは、すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子について私語《ささや》きかわすらしかった。高慢というのでもなく謙遜《けんそん》というのでもなく、きわめて自然に落ち着いてまっすぐに腰かけたまま、柄《え》の長い白の琥珀《こはく》のパラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人た
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