われぬ薄い紫色の色素がそのまわりに現われて来ていた。それが葉子の目にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋はやせ細って精神的な敏感さをきわ立たしていた。頬《ほお》の傷々《いたいた》しくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与える笑《え》くぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎《したあご》の輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄《ようせい》な精神美を付け加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に食わなくなった。そうなると葉子は矢もたてもたまらなかった。
 葉子は紅《べに》のまじった紅粉《おしろい》をほとんど使わずに化粧をした。顎《あご》の両側と目のまわりとの紅粉をわざと薄くふき取った。枕《まくら》を入れずに前髪を取って、束髪《そくはつ》の髷《まげ》を思いきり下げて結ってみた。鬢《びん》だけを少しふくらましたので顎《あご》の張ったのも目立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃頽的《はいたいてき》な同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。有り合わせのものの中からできるだけ地味《じみ》な一そろいを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋《えちごや》に車を走らせた。
 昼すぎまで葉子は越後屋にいて注文や買い物に時を過ごした。衣服や身のまわりのものの見立てについては葉子は天才といってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。従って思い存分の金をふところに入れていて買い物をするくらい興の多いものは葉子に取っては他になかった。越後屋を出る時には、感興と興奮とに自分を傷《いた》めちぎった芸術家のようにへと[#「へと」に傍点]へとに疲れきっていた。
 帰りついた玄関の靴脱《くつぬ》ぎ石の上には岡の細長い華車《きゃしゃ》な半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋《へや》に行って懐中物などをしまって、湯飲みでなみなみと一杯の白湯《さゆ》を飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の目を刺激するか、葉子は子供らしくそれを試みてみ
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