た。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
「もう飯《めし》を食っとる暇はない。またしばらく忙《せわ》しいで木《こ》っ葉《ぱ》みじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたちには天長節《てんちょうせつ》も何もあったもんじゃない」
そういわれてみると葉子はきょうが天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶《かんかつ》になった。
倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄《てすり》から下をのぞいて見た。両側に桜並み木のずっ[#「ずっ」に傍点]とならんだ紅葉坂《もみじざか》は急|勾配《こうばい》をなして海岸のほうに傾いている、そこを倉地の紺羅紗《こんらしゃ》の姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅《しんく》に紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめられるのも開港場らしい風情《ふぜい》を添えていた。
遠く海のほうを見ると税関の桟橋に繋《もや》われた四|艘《そう》ほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸《えじままる》もまじっていた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を祝賀するために檣《マスト》から檣にかけわたされた小旌《こばた》がおもちゃのようにながめられた。
葉子は長い航海の始終《しじゅう》を一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活々《いきいき》した心で手欄《てすり》を離れた。部屋には小ざっぱり[#「小ざっぱり」に傍点]と身じたくをした女中《じょちゅう》が来て寝床をあげていた。一|間《けん》半の大床《おおとこ》の間《ま》に飾られた大|花活《はない》けには、菊の花が一抱《ひとかか》え分もいけられていて、空気が動くたびごとに仙人《せんにん》じみた香を漂わした。その香をかぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだという事がしっかり[#「しっかり」に傍点]思わされた。
「いいお日和《ひより》ね。今夜あたりは忙しんでしょう」
と葉子は朝飯の膳《ぜん》に向かいながら女中にいってみた。
「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜の方《かた》でも外務省の夜会にいらっしゃる方もご
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