く、巧みに葉子にばつ[#「ばつ」に傍点]を合わせた。
 「何? あなた見た?……おゝそうそう……これは寝ぼけ返っとるぞ、はゝゝゝ」
 そして互いに顔を見合わせながら二人《ふたり》はしたたか笑った。木村はしばらく二人をかたみがわりに見くらべていたが、これもやがて声を立てて笑い出した。木村の笑い出すのを見た二人は無性《むしょう》におかしくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を目の前に据《す》えておきながら、互いの感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。
 しかしこんないたずらめいた事のために話はちょっと途切れてしまった。くだらない事に二人からわき出た少し仰山《ぎょうさん》すぎた笑いは、かすかながら木村の感情をそこねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向かいになるのが得策《とくさく》だと思ったので、程《ほど》もなくきまじめな顔つきに返って、枕《まくら》の下を探って、そこに入れて置いた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、
 「これをあなたに古藤さんから。古藤さんにはずいぶんお世話になりましてよ。でもあの方《かた》のぶま[#「ぶま」に傍点]さかげんったら、それはじれっ[#「じれっ」に傍点]たいほどね。愛や貞の学校の事もお頼みして来たんですけれども心もとないもんよ。きっと今ごろはけんか腰になってみんなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」
 と水を向けると、木村は始めて話の領分が自分のほうに移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけ[#「そっちのけ」に傍点]にした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っているといわんばかりに、いろいろと話し出した。事務長はしばらく風向きを見計らって立っていたが突然|部屋《へや》を出て行った。葉子はすばやくその顔色をうかがうと妙にけわしくなっていた。
 「ちょっと失礼」
 木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断わって、古藤の手紙の封を切った。西洋|罫紙《けいし》にペンで細かく書いた幾枚かのかなり厚いもので、それを木村が読み終わるまでには暇がかかった。その間、葉子は仰向けになって、甲板《かんぱん》で盛んに荷揚げしている人足《にんそく》らの騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉根《まゆね》を寄せながら、手紙に読みふける木村の表情には、時々苦痛や疑惑やの色が往《い》ったり来たりした。読み終わってからほっ[#「ほっ」に傍点]としたため息とともに木村は手紙を葉子に渡して、
 「こんな事をいってよこしているんです。あなたに見せても構わないとあるから御覧なさい」
 といった。葉子はべつに読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うのでとにかく目を通して見た。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
 「僕は今度ぐらい不思議な経験をなめた事はない。兄《けい》が去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つ事なんか、僕はしたいと思ってもできはしないが、もし明白にいわせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」
 「僕は女の心には全く触れた事がないといっていいほどの人間だが、もし僕の事実だと思う事が不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には――もしそんなのが恋といえるなら――だいぶ余裕があると思うね」
 「これが女の tact というものかと思ったような事があった。しかし僕にはわからん」
 「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してしまってろくろく物もいえなくなる。ところが葉子さんの前では全く異《ちが》った感じで物がいえる。これは考えものだ」
 「葉子さんという人は兄がいうとおりに優《すぐ》れた天賦《てんぷ》を持った人のようにも実際思える。しかしあの人はどこか片輪《かたわ》じゃないかい」
 「明白にいうと僕はああいう人はいちばんきらいだけれども、同時にまたいちばんひきつけられる、僕はこの矛盾を解きほごしてみたくってたまらない。僕の単純を許してくれたまえ。葉子さんは今までのどこかで道を間違えたのじゃないかしらん。けれどもそれにしてはあまり平気だね」
 「神は悪魔に何一つ与えなかったが Attraction だけは与えたのだ。こんな事も思う。……葉子さんの Attraction はどこから来るんだろう。失敬失敬。僕は乱暴をいいすぎてるようだ」
 「時々は憎むべき人間だと思うが、時々はなんだかかわいそうでたまらなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、おそらく唾《つば》でも吐きかけたくなるだろう。あの人はかわいそうな人のくせに、かわいそうがられるのがきらいらしいから」
 「僕には結局葉子さんが何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わからない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄らの生活が最後の栄冠に至らん事を神に祈る」
[#引用文ここまで]
 こんな文句が断片的に葉子の心にしみて行った。葉子は激しい侮蔑《ぶべつ》を小鼻に見せて、手紙を木村に戻《もど》した。木村の顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見とおそうとあせるような表情が現われていた。
 「こんな事を書かれてあなたどう思います」
 葉子は事もなげにせせら笑った。
 「どうも思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」
 木村の意気込みはしかしそんな事ではごまかされそうにはなかったので、葉子はめんどうくさくなって少し険しい顔になった。
 「古藤さんのおっしゃる事は古藤さんのおっしゃる事。あなたはわたしと約束なさった時からわたしを信じわたしを理解してくださっていらっしゃるんでしょうね」
 木村は恐ろしい力をこめて、
 「それはそうですとも」
 と答えた。
 「そんならそれで何もいう事はないじゃありませんか。古藤さんなどのいう事――古藤さんなんぞにわかられたら人間も末ですわ――でもあなたはやっぱり[#「やっぱり」に傍点]どこかわたしを疑っていらっしゃるのね」
 「そうじゃない……」
 「そうじゃない事があるもんですか。わたしは一たんこうと決めたらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちのすみあっちのすみと小さな事を捕えてとがめだてを始めたら際限はありませんさ。そんなばかな事ったらありませんわ。わたしみたいな気随《きずい》なわがまま者はそんなふうにされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょうよ。わたしがこんなになったのも、つまり、みんなで寄ってたかってわたしを疑い抜いたからです。あなただってやっぱり[#「やっぱり」に傍点]その一人《ひとり》かと思うと心細いもんですのね」
 木村の目は輝いた。
 「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」
 そして自分が米国に来てからなめ尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子がそれに同情と鼓舞とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていたが、
 「うまくおっしゃるわ」
 と留《とど》めをさしておいて、しばらくしてから思い出したように、
 「あなた田川の奥さんにおあいなさって」
 と尋ねた。木村はまだあわなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、
 「いまにきっとおあいになってよ。一緒にこの船でいらしったんですもの。そして五十川《いそがわ》のおばさんがわたしの監督をお頼みになったんですもの。一度おあいになったらあなたはきっとわたしなんぞ見向きもなさらなくなりますわ」
 「どうしてです」
 「まあおあいなさってごらんなさいまし」
 「何かあなた批難を受けるような事でもしたんですか」
 「えゝえゝたくさんしましたとも」
 「田川夫人に? あの賢夫人の批難を受けるとは、いったいどんな事をしたんです」
 葉子はさも愛想《あいそ》が尽きたというふうに、
 「あの賢夫人!」
 といいながら高々と笑った。二人《ふたり》の感情の糸はまたももつれてしまった。
 「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、わたしから申しておくほうが早手回しですわね」
 と葉子は半分皮肉な半分まじめな態度で、横浜出航以来夫人から葉子が受けた暗々裡《あんあんり》の圧迫に尾鰭《おひれ》をつけて語って来て、事務長と自分との間に何かあたりまえでない関係でもあるような疑いを持っているらしいという事を、他人事《ひとごと》でも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、しかし葉子に特有な火のような情熱がひらめいて、その目は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と聞いていた。言葉だけにもどこまでも冷静な調子を持たせ続けて葉子はすべてを語り終わってから、
 「同じ親切にも真底《しんそこ》からのと、通り一ぺんのと二つありますわね。その二つがどうかしてぶつかり合うと、いつでもほんとうの親切のほうが悪者《わるもの》扱いにされたり、邪魔者に見られるんだからおもしろうござんすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、どうしましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度三度食堂にはお出になるのに、一度もわたしのほうへはいらしってくださらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いももっともといえばもっともですの。それにわたしが胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情してくださって、いろいろとしてくださるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけがわたしを親切にしてくださって、ほかの方《かた》はみんな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げてくださる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げかたがいちばん足りなかったんでしょうよ」
 と言葉を結んだ。木村は口びるをかむように聞いていたが、いまいましげに、
 「わかりましたわかりました」
 合点《がてん》しながらつぶやいた。
 葉子は額の生《は》えぎわの短い毛を引っぱっては指に巻いて上目でながめながら、皮肉な微笑を口びるのあたりに浮かばして、
 「おわかりになった? ふん、どうですかね」
 と空うそぶいた。
 木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。
 「わたしが悪かった。わたしはどこまでもあなたを信ずるつもりでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えてください、わたしは親類や友人のすべての反対を犯してここまで来ているのです。もうあなたなしにはわたしの生涯《しょうがい》は無意味です。わたしを信じてください。きっと十年を期して男になって見せますから……もしあなたの愛からわたしが離れなければならんような事があったら……わたしはそんな事を思うに堪《た》えない……葉子さん」
 木村はこういいながら目を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどだった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前に誓いを立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一|隅《ぐう》に感ぜずにはいられなかった。しかしそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭《せば》めたものは、底のない物すごい不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はない。その木村に……葉子はおぼれた人が岸べを望むように事務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力を今さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。しかし……どうにでもなれ。どうかしてこの大事な瀬戸を漕《こ》ぎぬけなければ浮かぶ瀬はない。葉子は大《だい》それた謀反人《むほんにん》の
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