に冷然と尻目《しりめ》にかけた。
葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群《ひとむ》れはただ貪欲《どんよく》な賤民《せんみん》としか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人《ひとり》の男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近《みぢか》にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵《きゅうてき》のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う術《すべ》は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果|二人《ふたり》の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱《ゆううつ》の沼に蹴落《けお》とした。自分は荒磯《あらいそ》に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっ[#「じっ」に傍点]と見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母《うば》の家を尋ねたり、突然|大塚《おおつか》の内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入《ひとしお》の心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫《みだ》らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢《きょうまん》な女王のように、その捕虜から面《おもて》をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物《えもの》はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人《おっと》に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそり[#「そり」に傍点]を合わせる努力をしたならば、一生涯《いっしょうがい》木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎ[#「つぎはぎ」に傍点]な考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇《ちゅうちょ》する少女の心に似たぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板《かんぱん》の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし畏《おそ》れもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾《きょうしょく》を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面《うわべ》では事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶《ものう》げな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は棚《たな》に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕《がけ》のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっ[#「がらっ」に傍点]と変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木《こ》っ葉《ぱ》みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜《みつ》と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿《めじか》のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在|刹那《せつな》のくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着《とんじゃく》なく、
「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談《じょうだん》らしくいった。
「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑《こわく》の力がこめられていた。
事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳《こおど》りして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。
一七
事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]はうまい坪《つぼ》にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり[#「すっかり」に傍点]年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり[#「あっさり」に傍点]済んで放蕩者《ほうとうもの》らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。
停《と》まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人《ふたり》の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側《げんそく》を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座《かじざ》に立ち上がって、手欄《てすり》から葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談《じょうだん》を取りかわした。船梯子《ふなばしご》の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子《ふなばしご》はきり[#「きり」に傍点]きりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶《あいさつ》もそこそこに、思いきり派手《はで》な装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄《ながしめ》を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹《いちまつ》の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音《そうおん》にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱《かじづな》をあやつりながら、有頂点《うちょうてん》になってそれを拾おうとするのを見ると、船舷《ふなばた》に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉《いっせい》に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率《かるはずみ》らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
検疫官は絵島丸が残して行った白沫《はくまつ》の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵《まんば》を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはした[#「はした」に傍点]ない群集の言葉にも、苦々《にがにが》しげな船客の顔色にも、少しも頓着《とんじゃく》しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女《おぼこ》らしくさらにまっ赤《か》になってその場をはずしてしまった。
葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生の歓《よろこ》びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露《ひろう》したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄《てすり》を離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙《せんそう》の出口に田川夫妻と鼎《かなえ》になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で酬《むく》いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのが覚《さと》れた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「またおせっかいだな」
一秒の躊躇《ちゅうちょ》もなく男のよう
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