顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取りかわし始めた。
 と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、
 「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるっていってましたよ」
 といった。葉子は、
 「そう……」
 とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気《いき》苦しいほどの調子になっているのに気がついた。
 「なんでしょう、わたしになんぞ用って」
 「なんだかわたしちっとも知りませんが、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
 「まだあなただまされていらっしやるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたしきらいですわ。……でも先方《むこう》で会いたいというのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」
 葉子は実際激しい言葉になっていた。
 「まだ寝ていますよ」
 「いいから構わないから起こしておやりになればよござんすわ」
 岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめき[#「ときめき」に傍点]を覚えて、眉《まゆ》の上の所にさっ[#「さっ」に傍点]と熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた憤《いきどお》ろしかった。
 見上げると朝の空を今まで蔽《おお》うていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹縁《ささべり》をつけていた。海は目も綾《あや》な明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固《がんこ》な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心は抑《おさ》えよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird な激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方《むこう》をひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地《ゆめごこち》にした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
 「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言《ねごと》みたいな事をいってるんですもの」
 といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。
 「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」
 葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪訝《けげん》そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段《はしごだん》を降りた。
 事務長の部屋《へや》は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生《なま》暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑《おがくず》を塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせか[#「せかせか」に傍点]した気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり[#「てっきり」に傍点]鍵《かぎ》がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっ[#「はっ」に傍点]となった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋《へや》にはいると、同時にぱたん[#「ぱたん」に傍点]と音をさせて戸をしめてしまった。
 もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒縞《ぼうじま》のネルの筒袖《つつそで》一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっ[#「ぎっ」に傍点]と見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着《むとんじゃく》に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい出《い》づべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮《しず》め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐら[#「ぐら」に傍点]ぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋《へや》に来るのを前からちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶《あいさつ》もせずに、
 「さ、おかけなさい。ここが楽《らく》だ」
 といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子《ながいす》がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
 「何か御用がおありになるそうでございますが……」
 固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
 「用はあとでいいます。まあおかけなさい」
 といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつか[#「つか」に傍点]つかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
 この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり戻《もど》した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
 「何御用でいらっしゃいます」
 そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢《さか》しげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。
 「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
 事務長は朋輩《ほうばい》にでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形《かぎがた》にまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、
 「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
 となお手まねを続けながら、事務長は枕《まくら》もとにおいてある頑固《がんこ》なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草《たばこ》に火をつけた。
 「船をさえ見ればそうした悪戯《わるさ》をしおるんだから、海|坊主《ぼうず》を見るようなやつです。そういうと頭のつるり[#「つるり」に傍点]とした水母《くらげ》じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」
 といって、右手に持ったパイプを膝《ひざ》がしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草《たばこ》の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を囮《おとり》にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがに推《すい》したらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた金口《きんぐち》煙草の小箱を手を延ばして棚《たな》から取り上げながら、
 「どうです一本」
 と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、
 「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。
 「どれ」
 「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。
 「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、
 「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。荊妻《けいさい》と豚児《とんじ》どもですよ」
 といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。
 「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」
 葉子はしんなり[#「しんなり」に傍点]と立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物《けだもの》であるかを見きわめてやるぞという激しい敵愾心《てきがいしん》が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人《おっと》の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人《くろうと》じみたきれいな丸髷《まるまげ》の女が着飾って、三人の少女を膝《ひざ》に抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔《あな》のあくほどじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。
 「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥《しゅうち》から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑《ぶべつ》をきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初《かりそ》めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気《いき》のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌《ようぼう》の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉
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