の憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんより[#「どんより」に傍点]とよどんだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
やがて葉子はまたおもむろに意識の閾《しきい》に近づいて来ていた。
煙突の中の黒い煤《すす》の間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上《のぼ》って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴《ほらあな》の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を裾長《すそなが》に着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり[#「ぱったり」に傍点]静まってしまって、耳の底がかーん[#「かーん」に傍点]とするほど空恐ろしい寂莫《せきばく》の中に、船の舳《へさき》のほうで氷をたたき破《わ》るような寒い時鐘《ときがね》の音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時《なんじ》の鐘だと考えてみる事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌《ようぼう》がおぼろに浮かんで来るだけで、どう見直して見てもはっきり[#「はっきり」に傍点]した事はもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村はわたしの良人《おっと》ではないか。その木村が赤い着物を着ているという法があるものか。……かわいそうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな良人《おっと》に変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そしてその顔をもっとはっきり[#「はっきり」に傍点]見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。
見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色《こげちゃいろ》のマントを着た事務長が立っていた。そして、
「どうなさったんだ今ごろこんな所に、……今夜はどうかしている……岡《おか》さん、あなたの仲間がもう一人《ひとり》ここにいますよ」
といいながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を得《え》上げないでいた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく立っていた。
目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地《ゆめごこち》だった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した波濤《はとう》の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいがつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐《こうとう》な奇怪な心の adventure をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑的《こわくてき》な気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
「少し飲み過ぎたところにためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲板《かんぱん》の見回りに出ると岡さん」
といいながらもう一度後ろに振り返って、
「この岡さんがこの寒いに手欄《てすり》からからだを乗り出してぽかん[#「ぽかん」に傍点]と海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」
どこの国なまりともわからぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり[#「はっきり」に傍点]目がさめたように思った。そして簡単に、
「いゝえ」
と答えながら上目《うわめ》づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとり[#「うっとり」に傍点]と事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、
「若い方《かた》は世話が焼ける……さあ行きましょう」
と強い語調でいって、からからと傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若い方《かた》」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹篦返《しっぺがえ》しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁石《じしゃく》で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一|寸《すん》も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺《まひ》しかかった膝《ひざ》の関節はしいて曲げようとすると、筋を絶《た》つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、
「ま、ちょっと」
と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉が拳《こぶし》となって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな華車《きゃしゃ》なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴《くつ》のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三|間《げん》のかなたに遠ざかっていた。
鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を仇《あだ》かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇《ほうじゅん》な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しい靄《もや》となって取り巻いていた。放縦という事務長の心《しん》の臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着《むとんじゃく》そうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車《きゃしゃ》とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人《ふたり》の男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る蠱惑《こわく》におぼれて行こうとのみした。口から喉《のど》はあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す気息《いき》は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓《せいとん》に気を配って歩いている。
葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
「あなたはどちらまで」
と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入《ひとしお》震えた。頓《とみ》には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病《おくびょう》そうに、
「あなたは」
とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
「シカゴまで参るつもりですの」
「僕も……わたしもそうです」
岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と答えた。
「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
「えゝ」
とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇《やみ》の中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手《うわて》を行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。
二人《ふたり》に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。眼睛《ひとみ》は大きく開いたままで、盲目《めくら》同様に部屋《へや》の中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の袂《たもと》をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根|枕《まくら》を両手でひし[#「ひし」に傍点]と抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時|堰《せき》を切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿《うるお》しながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿《まるねすがた》を画《か》いたように照らしていた。
一四
なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠《けんたい》の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり[#「すっかり」に傍点]遮断《しゃだん》された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、
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