暑いからどこぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所で心細うござんすから……よくって」
 古藤は何か平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。
 朝のうちだけからっ[#「からっ」に傍点]と破ったように晴れ渡っていた空は、午後から曇り始めて、まっ白な雲が太陽の面をなでて通るたびごとに暑気は薄れて、空いちめんが灰色にかき曇るころには、膚寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。時雨《しぐれ》らしく照ったり降ったりしていた雨の脚《あし》も、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたようなきたない部屋《へや》の中は、ことさら湿《しと》りが強く来るように思えた。葉子は居留地のほうにある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思いきったぜいたくな買い物をした。買い物をして見ると葉子は自分の財布《さいふ》のすぐ貧しくなって行くのを怖《おそ》れないではいられなかった。葉子の父は日本橋ではひとかどの門戸《もんこ》を張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の親佐《おやさ》が婦人同盟の事業にばかり奔走していて、その並み並みならぬ才能を、少しも家の事に用いなかったため、その死後には借金こそ残れ、遺産といってはあわれなほどしかなかった。葉子は二人《ふたり》の妹をかかえながらこの苦しい境遇を切り抜けて来た。それは葉子であればこそし遂《おお》せて来たようなものだった。だれにも貧乏らしいけしきは露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚一枚の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだのに目の前に異国情調の豊かな贅沢品《ぜいたくひん》を見ると、彼女の貪欲《どんよく》は甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中にありったけの買い物をしてしまったのだ。使いをやって正金《しょうきん》銀行で換えた金貨は今|鋳出《いだ》されたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それをどうする事もできなかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持ちに合槌《あいづち》を打つように見えた。古藤はうまく永田から切符をもらう事ができるだろうか。葉子自身が行き得ないほど葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんなふうに扱ったろう。永田の口から古藤はいろいろな葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は悒鬱《ゆううつ》が生み出す反抗的な気分になって、湯をわかさせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の三鞭酒《シャンペン》を取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。
 夜になったら泊まり客があるかもしれないと女中のいった五つの部屋《へや》はやはり空《から》のままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく目をさまして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりとながめていた。
 その時じたッ[#「じたッ」に傍点]じたッとぬれた足で階子段《はしごだん》をのぼって来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で帳場《ちょうば》のほうにどなった。
 「早く雨戸をしめないか……病人がいるんじゃないか。……」
 「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」
 今度はこう葉子にいいながら、建て付けの悪い障子をあけていきなり[#「いきなり」に傍点]中にはいろうとしたが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]と驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。
 香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にした暖かいいきれ[#「いきれ」に傍点]がいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋のすみずみまでは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内《ぐんない》のふとんの上に掻巻《かいまき》をわきの下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、はでな長襦袢《ながじゅばん》一つで東ヨーロッパの嬪宮《ひんきゅう》の人のように、片臂《かたひじ》をついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのり[#「ほんのり」に傍点]ほてった顔を仰向けて、大きな目を夢のように見開いてじっ[#「じっ」に傍点]と古藤を見た。その枕《まくら》もとには三鞭酒《シャンペン》のびんが本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、華奢《きゃしゃ》な紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごき[#「しごき」に傍点]の赤が火の蛇《くちなわ》のように取り巻いて、その
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