その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような気にすらなっていた。
 「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」
 という声と不敵な微笑とがどやす[#「どやす」に傍点]ように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。
 「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙《せわ》しいで行きますよ」
 とぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
 事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事がまるで芝居《しばい》でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子に逼《せま》って来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れない涙がいつのまにか宿っていた。
 木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、
 「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしがたまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが――おかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこにわたしはたゆまない希望をつないで行きます」
 決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据《す》えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇《のぼ》り降りする雲の梯《かけはし》のように思っている。あゝ何の信仰!
 葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す威力を備えた自分はまただれに何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く断たれてしまわないとどうして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な感情に捕えられていた。
 「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのような善《よ》い方《かた》が不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。……わたしは生まれるときから呪《のろ》われた女なんですもの。神、ほんとうは神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、わたし卑怯《ひきょう》はいやだから信じます……神様はわたしみたいなものをどうなさるか、しっかり[#「しっかり」に傍点]目を明いて最後まで見ています」
 といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るのだった。
 「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
 といってきっぱり[#「きっぱり」に傍点]思いきったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と押しぬぐいながら、黯然《あんぜん》と頭をたれた木村に、
 「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいうほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事をつべこべ[#「つべこべ」に傍点]と口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうからめいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」
 木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。
 そこに「御免なさい」というかと思うと、いきなり[#「いきなり」に傍点]戸をあけてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先《きさき》をくじかれながら、見ると、いつぞや錨綱《びょうづな》で足をけがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚《びっこ》になっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥《おい》を尋ねて厄介《やっかい》になる事になったので、礼かたが
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