が葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうに来《こ》ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭《ふとう》に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝《ひざ》に抱き上げて愛撫《あいぶ》してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池《いけ》の端《はた》のさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、枕《まくら》もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで哀《かな》しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう哀《かな》しく一人《ひとり》ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかり[#「しっかり」に傍点]すがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯《はてし》のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、ヌんよりと広がっていた。生を呪《のろ》うよりも死が願われるような思いが、逼《せま》るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては枕《まくら》に顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
こうして小半時《こはんとき》もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶《ものう》げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが繋《つな》ぎ綱《づな》を受けたりやったりする音と、鋲釘《びょうくぎ》を打ちつけた靴《くつ》で甲板《かんぱん》を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋《へや》です」
という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]となった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがば[#「がば」に傍点]と伏さってしまった。
戸があいた。
「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気《いき》もとまるほど身内がしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]ばってしまっていた。
「早月《さつき》さん、木村さんが見えましたよ」
事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人《ふたり》の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に背《うし》ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生《ごしょう》ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪《けんお》とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
「痛い……いけません……お腹《なか
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