いんぎん》にして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかその苦《にが》い杯をなめさせられた。そして十八の時|木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、154−18]《きべこきょう》に対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮初《かりそ》めの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくも萎《な》えてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくり[#「とっくり」に傍点]と見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。
 葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒石《ひせき》の用法を謬《あやま》った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
 肉欲の牙《きば》を鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまく香《にお》いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛《くも》のように網を張った。近づくものは一人《ひとり》残らずその美しい四《よ》つ手網《であみ》にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力《ようりょく》ある女郎蜘蛛《じょろうぐも》のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目《しりめ》にかけた。
 葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群《ひとむ》れはただ貪欲《どんよく》な賤民《せんみん》としか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人《ひとり》の男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近《みぢか》にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵《きゅうてき》のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う術《すべ》は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果|二人《ふたり》の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱《ゆううつ》の沼に蹴落《けお》とした。自分は荒磯《あらいそ》に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっ[#「じっ」に傍点]と見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母《うば》の家を尋ねたり、突然|大塚《おおつか》の内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入《ひとしお》の心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫《みだ》らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだっ
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